「あ~喉かわいたな~」
「うむ、奇遇だな。 俺も丁度そう思っていたところだ」
しーん。テレビから流れるJ-POPがやたら大きく部屋に響いている。
十二月三十一日 大晦日
その日、宗介は唐突にかなめの家に招かれた。
「なんかキョーコが突然高熱出したって言うし、お料理作っちゃったし、一人でテレビなんて見ててもつまんないし…」
宗介は長い誘い文句と言い訳をひとつひとつ丁寧に、何度も頷きながら黙って聞いている。
~だしという物言いが何かひっかかったが、武器の点検清掃も終わり、晩飯を馳走してくれると言うのだから断る理由など何一つと無い。
「有難い、では遠慮なく。」
宗介はかなめの厚意に預かり、晩御飯を馳走になった後、
「長居しては…」と一応の遠慮を見せたのだが、かなめは「大晦日だからもう少し居ろ」と言うのだった。
「大晦日なら…」
宗介はそう答えて、引き続き厚意に甘えることにした。
正直何故年の瀬だからなのかは良くわからないが、これが日本の文化で『普通の人』の
感覚ならば従うべきなのだと宗介は考える。
こんな夜遅くまで彼女の、かなめの家に居座る事には…、どこか落ち着かない心地がするのだが…。
立派に『大晦日』をやり遂げ、自分が立派な日本人、真人間だと証明が出来れば少しは彼女の杞憂も晴れるだろう。
(ならば心行くまで大晦日とやらを堪能しようではないか…)
などなど考えて、宗介はどこか意気揚々と目を輝かせた。
(どこからでも来るがいい大晦日!!)
…それで今、かなめと居間のコタツに足を突っ込んでくつろいでいるのだが。
かなめはテレビに視線を戻した、テレビの中で往年の演歌歌手が拳を聞かせて熱唱している。
「この歌手、毎年毎年同じ歌うたうのよね~。退屈ったら…。」
そんな時は食糧補給または排泄タイムなのだ、どこの家庭も絶対そうだとかなめは信じている。
飲みたい、キンキンに冷やしたドクターペッパーが飲みたい。
それからちらりと横目で隣の宗介を見た。
「過去の名声だけで大きな顔をしているのだろう。
俺の知っている将校にも唯一度の功績だけで下士官を圧迫し不適切な管理を行っていた者が居た。
…結局は裏切り者の手により悲惨な死を遂げたのだが。」
宗介はそう言って、『細菌と軍事の歴史』と書かれたハードカバーの本をしげしげと眺めている。こう見えても彼は今、一生懸命大晦日を堪能中なのである。
「あぁ…そうですか~」
かなめは胡乱な表情でそれだけ呟いて、もう一度視線をテレビに戻す。
歌の2番が終わって、やっとか…と思うと、今年は趣向を変えたのか、ユーロリミックスアレンジバージョンを歌い出したではないか。
「げ…!趣味悪~…。」
「そうらな」
宗介はまぐまぐと蜜柑を頬張って言った。
「…あ~~~喉かわいたなあ、飲みたい、キュッと冷えたドクペが飲みたい。
美味しいんだろうなあ…。乾いた喉を潤したい、火照った体を冷ましたい…。」
「それは同感だ。俺も今まさに飲料の補給を所望しているぞ。」
しーん…。
宗介は蜜柑の皮を丁寧に元の丸い形に復元してみせて片付けると、そこはかとなく満足げな表情をして再び読書に戻った。しつこいようだが彼は渾身の力で大晦日を堪能しているのだ。
「…あ~~~!もうっ!! あたしが取りに行けば良いんでしょっ!!あたしがっ!!
何よ自分ばっかりー!!」
「む…?」
「うう、さむっ。 これだからヤなのよ~もうっ。」
ぶるぶるとかなめが震える真似をする…と、それを見て宗介は焦燥を顕わにして速やかに次の行動を取ろうとした。
「ああ、そうか。すまない大晦日に気を取られ過ぎた…、くそっ大晦日め。千鳥いいぞ、俺が変わる。」
―しまった、また失敗した。そんな顔だ。
正直ちょっとふざけて甘えてみようかな~と思っていただけで、
かなめは彼のその態度がなんだかうれしくも申し訳なくもあった。
(たかがキッチンへの移動で、大げさなんだから…。)
「ああ、あはは。 もう良いわよ、一応あんたはゲストだからね。 思い切って出ちゃえばなんて事無いんだけど、出るまでが覚悟が要るのよねー。うぅ…ぶえっくしゅ…ふもっ…。」
「……面目ない。 しかし、確かに。このコタツというものは、快適だな。」
かなめが冷蔵庫からドクペとかオレンジジュースとか青汁とか午後ティーとか、
ついでにつまむものを少々見繕って居間に戻ると、宗介がトロンとした目で、コタツに腕まで突っ込んでまどろんでいた。
「ソースケ、犬は外に出て庭を駆け回るのが通例らしいわよ。」
「むん…?」
かなめがくすくす笑いながらからかうと、犬耳を垂れて(いるような気がする)不思議そうな顔をして宗介が振り返った。
コタツの熱で頬が少々高潮しているのが、浅黒い彼の肌でも解り、その表情はどこか恍惚を噛み締めている。
そんな彼をかなめはちょっとだけ可愛いなと思った。
こんなの見たら、彼の仕事の仲間はからかって笑うだろう。
でも自分の前だけで今、何の抵抗無くこういう姿を見せてくれている…と考えたら何だかこそばゆい。
「はい。」
かなめがニッコリ笑って宗介に飲物を何本か差出して、宗介はオレンジジュースを選んだ。
「ふむ、感謝する。」
「また柑橘系…」
「なんだ?」
「いや?」
正直彼の飲み物の好みが良くわからなかったので適当に持ってきていたのだが…。
オレンジジュースというチョイスは至って無難だと思う、思うのだが。
宗介はさらにもう一つ、と蜜柑に手をかけ、再び蜜柑に執心し始めた。
つまむ物は他にも、ポテチとかチョコとか、一応気を利かしてビーフジャーキーと鶏ささみヘルシージャキーとかもあるのに。
蜜柑をまぐまぐして、オレンジジュースを飲んで、蜜柑を…
「……おかしいと思わないの?」
「はにがら?(何がだ)」
「いや…。 いいけど。 あんたそんなに蜜柑ばっか食べたら黄色くなるわよ?!」
「…なにっ!?」
宗介はその表情に戦慄を顕わにして蜜柑を一かけ取り落とす。
「本とよ、あんたなんてボン太くんみたいに真黄色になっちゃいなさいよ!
食べすぎは駄目! てことで、これはあたしの。あたしの分の蜜柑なんだからっ!!」
「そんな…あっ…。」
かなめが身を乗り出し、ばばっと蜜柑を奪った振動で、宗介の前に5個はあろう『復元蜜柑』がはらりはらりと崩れた。
「もっふもふ、やっぱ蜜柑うめー」
蜜柑に舌鼓を打つかなめの傍らで、宗介は崩れた蜜柑の食べかすを悲しげに見つめていた。
深々と夜は更けていく。
もうじき日が変わってしまう、帰るきっかけを失い、このままでは…
そう思って宗介はいとまを告げるタイミングを伺って居たのだが、
「千鳥、本当に俺は黄色く…ではない、その、そろそろ俺は…」
「はーい、お待ちかね~~。」
取り出したのは何かのパウチ。
表面にでかでかと~酒と書いてあるからそれの成分は明らかだ。
間が悪いことに、かなめが上機嫌にもアルコールを取り出したのだった。
「千鳥、アルコールは駄目だ、アルコールは毛細血管を詰まらせ脳細胞を破壊し…
それ以前に未成年飲酒は禁止だぞ」
「我国の銃刀法を鮮やかに犯してるあんたが…。 まあまあ、お酒って言うかコレ甘酒ね?
確かに飲酒はアレだけども、お正月の雰囲気だけ、ね? 体あったまるよ?」
そういうとかなめは台所に行って甘酒を温めはじめた。
ほわん…とかすかなアルコールと麹の甘い香りが宗介の鼻をくすぐった。
「ふむ…これは、こういう、大晦日に飲むものなのか?」
「うんそう、必ずってわけじゃないけどね~。ハイどーぞ。」
「そうか…これも『日本人の普通』か。なら。」
湯呑みに入ったそれを鼻に近付けると、咽返すような香りが鼻腔に拡がる。
それから、おそる、おそる。ちびちびとそれを口に含んだ。
甘い程よく暖かい液体と粒々したものが口内に拡がり、喉に滑らせると直ぐに体がポカポカと熱を帯びて浮遊感を覚えた。
やはりこのアルコールの独特の作用には少し戸惑いも覚えるけれど、
この甘さ、人肌のような暖かさ、少々胸を躍らせる作用も、悪くない。
懐かしい様な匂いも、寧ろ好ましいと思った、何かに似ている、何か…。
「どう?」
アルコールの作用で視野の両端に黒い幕がかかったように狭まっている。
その絞られたファインダーいっぱいに、千鳥かなめが少し不安げに微笑みかけていた。
暖かい、甘い、懐かしい…
「ああ、そうか…君みたいだ。」
「え?」
かなめが小首をかしげて不思議そうな顔をしている、それをぼんやり見つめていると、徐々に瞼が重たくなるのを感じた。
「……すまん、眠い…。」
「え~?! あんたって…ご、ごめんね、こんなにお酒駄目とは思わなくってさ。」
「いや、別に気分が悪い訳ではない。寧ろ良い。 …ただ寝不足も祟っているのか…ね、眠い。」
酷く体が重かった、たった一口の甘酒で酔った…というよりも。
コタツの温かさや、この空間のもたらす堪らない安息感、それら全ての相乗効果でここに来て急に力が抜けた…そんな感じだ。
「もう、しょうがないな。このままここで寝ちゃって良いよ。ソースケ。」
「いやっ…それは…」
そう言って頑張って身を起こそうとするのだが、どうも立ち上がる気が起こらない。
恐るべしコタツの魔力である。
「良いって。あたしもこのままダラダラ寝ちゃう。 お正月だからいいのよ~。」
「む…これもそうなのか?」
これも日本の通例行事なら…、というよりもそんなのは正直こじ付けだった。
このまま守られる様な暖かい空間でまどろんで彼女と過ごしていたい、帰らなくて良いのならばずっとここに居たい。そう強く思っている。
その時どこか遠くで低く重い、鐘の音が鳴り響いた。
「あっ、年明けちゃった。」
「む?」
宗介が顔だけのそりと起こすと、テレビの中で人々の明るい声が響いていた。
明けましておめでとう、おめでとう、おめでとう。
世界のどこかでは嬉しそうに人々がキスをしている。
どこを見ても笑顔で誰もがみな幸せそうだった。
何時か空爆に脅えながら、不思議な気持ちでこの様な映像を見ていた。
他人の幸福を呪った事は無い、ただリアリティが無いと思っていた、幸福が良く解らなかった。
遠い世界の出来事で自分はそれら一切とは関係が無い、溢れる笑顔も幸福も、自分の為のものでは有り得ない。
それら一切は、どこか虚無感に満ちた絵空事の様にすら思えたこともあった。
どのような想いで キスを するのだろう ?
新年を祝う経験が無かった訳ではないが、何処にいても根無し草のような心許無さは拭い切れなかった。
けれど。
「明けましておめでとう、ソースケ」
目の前にあった。
彼女の背後のテレビ映像の笑顔はやはり遠く、現実味を帯びない。
けれどその中の誰よりも眩しい笑顔が、鮮烈なリアリティを伴って自分の目の前にある。
そしてそれが今、ただ自分の為だけに与えられている。
頭の中を稲妻が走ったような感覚がした。
その時思い知った、何故不思議だったか虚無に思えたか、自分には無かったからだ、…羨ましかったのだ。
けれど自分はもう得ていたのだ、あの眩しい世界を、幸福を。
「……千鳥。」
「今年もヨロシクね。」
「…ああ、よろしく頼む。」
おめでとう。よろしく。
今年も、来年も、再来年も。
一緒に居たい、ずっと、こういう風に彼女の傍で…。
―千鳥やはり俺は、本当に、君のことを……
かなめの目の前におずおずと宗介の両手が差出され、空を切って交差した。
「?」
(アルコールで遠近感が狂っている、惜しい。)
そのまま宗介はクタクタと崩れ落ちる、目を瞑ろうとする自分にもかなめは微笑みかけてくれている。
「おやすみ。いい夢見るのよ。」
「……」
おやすみ。君もいい夢を。
もう言葉にはならなかった。
*
ケ…起きて…起きて。
どこからともなく声がする。聞き覚えのある声。
瞼の裏側に暖かな光を感じそちらの方に向かってフワリフワリと昇る様な心地で、目を醒ました。
「お早う、ソースケ」
柔らかな光の中で、かなめが笑いかけている。
頭が釈然としない、…自分は何をしていたのだったか…?
そして。
「お……、な。 何故君がここに…。」
宗介は彼女に尋ねる。思いの外、掠れて間抜けな声が出てしまった。
「ぷっ、 何時まで寝ぼけてんの? …それとも何?忘れちゃったの?」
「え……」
「あたし達、結婚したよね?」
「はっ…なっっ…?! 今なんて…」
「もうっ。 どこまでボケ倒す気よこのスットコドッコイ! 早くしないとご飯あげないわよ!」
そういってぶう、と頬を膨らませて唇を尖らせた。
「そ、それは困る。」
宗介は言われるがままいそいそとベッドから抜け出す。
「その、つまり俺は君の夫で君は俺の妻という事か?」
「…それ以外にどう解釈をするのよ? …寝てる間に脳ミソ爆撃されたんじゃないの?」
やや本気で心配をしているようで、言葉とは裏腹にかなめは不安気に宗介を覗き込んでいる。
「……いや、その、良いのか君は?」
「良いも何も…。」
かなめはもじもじと言葉尻を濁すが、宗介は尚も食いついて来る。
「俺で良いのか?」
とても真剣な、縋る様な目で。かなめは堪らず真っ赤になってうつむいた。
「な、なんなのよお、もう。…その、だから…あなたが、良いの。」
「そう、なのか…。」
まだ状況を良く飲み込めないけれど、宗介はその言葉に何故か心の底からほっとして救われたような心地になった。
「そうか、そうなのか君と俺は…」
「ほ、ほら、ヨダレついてるよ、子供みたい。」
言ってかなめは彼の口元を優しく拭って、それは綺麗な笑顔を見せた。
眩しくて目の前がチカチカして、宗介は何度も瞬きをしてしまう。
思わず捕まえようと伸ばしたその手をするりと抜けて、かなめは窓を開け放った。
「いい天気だね、公園とかブラブラしたいなあ」
「ああ、いいな」
相槌を打ちながら宗介はその光景を想像してみる。それだけで期待に胸が躍った。
穏やかな一日をただ彼女とのんびりと過ごす、きっと素晴らしい時間なのだろう。
白いカーテンが翻り、彼女の髪が柔らかく風に膨らむ。
それからこちらを見て、また微笑んだ。
カーテンは天使の羽のようで、彼女の周りに溢れる光は優しさと温かさに満ちている。
その笑顔、不思議な浮遊感、そこはまるで―楽園。
「…こんな日が来るとは。」
「え?」
もう一度。
宗介は彼女を捕まえようと、光の世界へと手を伸ばす。
「あ…」
ふわりと背中から彼女を包み込む。
花の様な匂いに誘われて思わず髪にキスをした。
「……もう、バカ。 変なの…朝から」
「俺は正常だ。 ただ、君が凄く良い匂いがするから…」
「バカ…ヘンタイ…えっち」
彼女がはにかんで宗介を見返る。
宗介は彼女と向き合って今一度強くその腕で感触を確かめる。
かなめの肺から空気が漏れ、唇から甘い嘆息が聞こえた。
思考は奪われ、ただただ強くかき抱いて、それから……
*
「あたし、頑張るからー!」
「はっ?!」
突然鼓膜を突き破るかのような叫び声がして、宗介はガバっと身を起こした。
すると、同じく自分の声に起きたのか、寝起きのかなめと目が合った。
かなめはどういうわけか、拳を高らかに突き上げている。
「あ…ああビックリした。 夢か、そりゃそうよね。うんナルホド…」
「…?」
起きるなり良くわからない事をかなめはブツブツ言っている。
どうやら妙な夢を見ていた様だが、それはまた、別の話。
「寝てしまったのか…、 君は起きるなり元気だな。それなら奇襲もかわせるだろうな…」
「いやそれは無理だから。…まだちょっと眠いし。ソースケは?なんか夢?見た?」
「…何故だ?」
見るには見た、覚えている。しかし…。
「あー、元旦に見る夢ってさ、初夢っていうんだけど。正夢なのよ。つまりホントになるの。」
「なにっ?!」
「ん…? なに?なにその反応。」
かなめは「別に」とか、なんかロクでもない、夢なのに夢の無い話を宗介からされるかと思っていた。
だからこれは意外な反応だ。
「か…、叶ってしまうのか…。」
「ん~まあそういう事になってるみたいだけど」
見ると宗介は何故かふるふると震えていて、驚き、だろうか?
何か複雑な感情をその表情に示していた。
「そうか…。 そうなのか…。」
それから宗介は一人でブツブツ呟いたり、何か想像を巡らせているようだった。
そこはかとなく締まりの無い表情をしている気がして、かなめが訝し気に尋ねる。
「…ねー、何の夢見たのよ?教えなさいよ~。…あ、まさかえっちな夢?」
「なっ!! そ、そそんな訳無いだろ無いだろう! 俺がそのような事を千鳥に…」
「そうよね~。わっはっはっは。…って千鳥…あたし?」
「はっ…」
すると急に、それまでオヤジのノリだったかなめが、ポッと頬を赤らめ大人しくなる。
「…なに? あたしが出てきたの? あ、あたしの夢なの?」
「いやっ…その」
思わぬ失言に、宗介も耳まで真っ赤にしてうつむいた。
気まずい空気が流れ、堪らずかなめは照れ隠しに捲くし立てる。
「ま…ますます何なのよー! 吐きなさい、吐かないとこれから初ハリセンをお見舞いしちゃうわよ~」
「いやそれは…、しかし兎に角何も無い、見てない!」
例えハリセンでシバキ回された上こそぐり回され、恐ろしい拷問にかけられようとも…
言えない、言える筈が無い。
自分と、彼女が婚姻関係になっていた等と……。
「ぶ~、つまんないわね。」
「……その、君はどうなのだ?」
宗介はそれとなく話を逸らした。
「あたし? あたしは…まあ、アレよ。何かの啓蒙なのかなーアレは。」
「ん…どういうことだ?」
「あたしは今年は一味違うのよ…。 もう妖怪みたいな通り名では呼ばせない、さようなら昨日までのあたし。そして始まる逆襲の年…。」
逆襲とは…。何やら物騒な事を言っているようだが、彼女の言わんとする事は皆目検討がつかない。
「……すまないが、さっぱり解らんのだが…。」
宗介は困り果ててこめかみから汗を一筋流し首を捻っている。
「ふふん、あんたも今に見てなさいよ…」
「う……」
かなめは不適な笑みを浮かべる。
気の毒な宗介は謎の恐怖に戦慄し、無駄に怯えた。
「ふあ…やっぱまだ眠いわー。無理っす…。…もう一眠りしようかな。」
かなめは大口であくびをすると、もそもそとコタツに吸い込まれていく。
「そうか、では寝て良いぞ千鳥。俺は起きている。」
「そ? えっと…じゃあ悪いんだけど3時間したら起こして。」
「ああ、了解した」
「ありがと、起きたら日の出見にいこ?」
「…了解」
かなめは返事の変わりにふふっと笑って、それから直ぐにまたコタツで丸くなった。
宗介は彼女が深く眠りについたことを確認してから、彼女を抱き上げて寝室にはこんでやる。
「むにゃ~」
静かにベッド降ろすと、かなめが寝返りを打ってギシっとマットレスがたわんだ。
彼女の幸せそうな寝顔をただ眺める。不思議だ、それだけで心が安らいだ。
宗介は手を伸ばし、彼女の頬に、触れた。
「……好きだ」
好きだ。彼女が好きだ。
何時の間にかこんなに、愛していた。
ずっとこうして彼女の平穏を護ってやりたい。
ずっとこうして暮らしていたい。
幸せになりたい。
出来るだろうか、その資格が俺にあるだろうか?
過去は変えられない、過ちも消えないし失くしたものは戻らない。
それでも彼女と二人、心ある人たちに囲まれ、ゆっくりとこれまでの事を整理して、
色々な事を学んで、色々な経験をして、そして何時か…彼女を本当に護れる自分になりたい。
宗介はかなめに顔を寄せ彼女の唇に自分の唇を重ねた。
捕まえて強く抱き寄せて、夢の終わりにそうしたように。
柔らかい、温かい、その全ては夢見たそのままに、まさに楽園。
顔を離すと、触れ合っていた柔らかな粘膜は惜しむように彼の唇をそこに留めて、
それからやがて静かに余韻を残して遠ざかった。
どのような想いで キスを するのだろう ?
言葉にならない想いだった、説明など無意味だった。
ただただ、縋るような思いで、繋がりを求めるのだ。
大切な誰かと、幸せな毎日を、来年も再来年もと。
ふと宗介が窓の外に目をやると、まだ星が出ていた。
東京の暗い空でも、目を凝らせば小さな星が無数に輝いているのが見える。
目の前が暗いように思えても、光は必ずある、そこには無限の何かがあるのだ。
大事なのはそれを見つける努力、叶えようとする努力。
「…よし」
熱い想いがどこからか込上げてくる。
何でも叶えられそうな気がする、何処へでも行けそうな気がする。
今年なのか来年なのか再来年なのか。解らないけど何時か、必ず。
宗介は掌を握りしめ、夜明けと彼女の目覚めに心を躍らせた。
時期を外してすいません。おめでとうございます色々と。
宗かなの夜明けが来ると良いです。お幸せにー!
という話。以前アップしたオマケ→千鳥の見た夢
その朝予兆があった。夢を見た、いや或いは未来からの呼び声か。
それが何なのか記憶に残ってはいない、
ただ胸の奥に、風穴が空いた様な、恐ろしいまでの喪失感だけが居座っている。
かなめは滅入る気持ちを押しのけるように、ベッドからのそりと起き上がった
一二月一九日 一三時〇五
東京調布市
「はぁあーっと、どっこいしょ」
千鳥かなめはベッドに身を投げてなかなかわざとらしい溜息をついた。
艶のある黒髪がベッドの上に見事に広がっている。
「掃除もした、洗濯もした、ご飯の準備も終わった…あとなんだっけぇ…」
いかにも気だるいといった感じで
指を折りつつやるべき事をラインナップしてみたが、それ以上指は必要無かった。
行楽日和の土曜日、かなめは特にする事も無く、だらしなくベッドに倒れ足をバタつかせて遊んでいる。
暇で退屈で仕方ない、という自分を演じている。なるべく、何事もないように振る舞っているのだ。
「はぁ…」
半開きの眼で溜息をつくと、異様に大きな声に聞こえて我ながらビックリする。
部屋が広すぎるのだ。
明るい室内、穏やかな気候。
良い日だ。
それなのに、何に執心しようとも、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちは埋まらない。
けれどじっとしていると、急速に時間が緩やかに感じ、それでいて静けさが不穏な予感を増長させた。
家族向けの3LDK、それがシン…と静まり返ると薄寒くさえある。
かなめはふいに寒気を覚えて小さく縮こまる。寒い…、いや違う、心細い。
香港の一件以来、退屈な土日は、恐怖だった。 たびたび不吉な感覚におそわれ、そして怯える。
学校が無い、必然的に皆が居ない、アイツも居ない。あのレイスは見ているかもしれないけど、それでも心細い。
いやもっと具体的に言えば『寂しい』、人恋しいのだ。生身の人間の温もりを求めているのだ、こういう時は。
こんな思いをするのは。初めてではない。
かなめは寝室の棚に目をやる。
小物や化粧道具と供に小さな写真立てが飾ってあった。
そこには小さなかなめと、彼女に似た女性が幸せそうに微笑んでいる。
―3年前のことだ。
あの日も、広すぎる部屋にかなめは一人置き去りになった。
部屋も心も、母の居た時間と空間の分だけポッカリと失われてしまった。
―お母さん。
愛した分、悲しみの想いが強くて、楽しかった事が良く思い出せない。
朝目を覚ましたらそこに母が居て、学校から帰っても家には暖かな明かりが灯り、母が待っていた。
覚えているのはそんな事。
だけど大好きだった、何でも無い、当たり前みたいな毎日。何時もそこにあると思っていた。
けれど失ってしまったら、あの日々は二度とは戻らなかった。
かなめはベッドに居たボン太くんをぎゅっと抱き締めた。
今朝の胸に残った感触はその時に良く似ていた気がして、また心細くなる。
「はぁ……」
暇というものはしばしば宜しくない。余計な事を考えてしまう。
この先もずっと、平穏が守られるなんてかなめにはもう思えなかった。
夢現に見なくたって、不穏な未来などもう容易に想像出来るのだ。
今のかなめの日常は、細い糸で繋がっているだけに過ぎない。気を抜いたら直ぐに壊れてしまう。
当たり前の日々がどんなに貴重か、痛いほど知っているのに。
かなめは気丈に歯を食いしばりかぶりを振って、気を紛らわすようにPHSをいじる。
こんな気持ち、誰にも話せない、でもとても一人では抱えられない。
今日、同じ事を何度繰り返したか解らないが、最後には必ずある部分で指を止めるのだ。
―サガラソースケ―
PHSの液晶にはそう表示されている。
「あいつ…」
かなめは未だ、休日の彼について、彼のプライベートについてまで把握していない。
というよりも、しようとしなかった。彼の事情を知れば知るほど、心が落ち着かなくなるのだ。
無事戻るのだろうか…と。 あの雨の日みたいに…。
「もう…懲り懲りだってのよ。…バカ。」
自分には、いざとなったら彼しかいない。そんな気がしていた。
世界で、自分が頼れるのは、肉親で無く、友達で無く。
妙に胸がしめつけられる思いがして、液晶のその名から目が離せなくなった。
―電話…さえすれば。
もしかしたら直ぐに駆けつけてくれるかもしれない。
『どうした?!』とか言って、血相変えて飛んで来てくれる。きっと。うん。
「………。」
想像してかなめはなんだか嬉しい様な心地がして、無性に彼に会いたいと思った。
意を決したように、その表示の番号をコールする。
コール音がなる、1回、2回……
「出ない、か。」
割とあっさり諦めがついた当たり、ハナから期待はしていなかった様だと気づく。
「そもそも、用も無くかけたら、迷惑だよね。 あいつ真剣に考えちゃうし。…ね。」
制服姿の「戦争ボケの宗介」は、随分近くに居る気がしている。
何時の間にか他愛ない会話もするようになり、どちらとなく相手を待って、一緒に下校する事が当たり前になった。
かなめが一人で居ても、実はすぐ傍でついて見ていた…という事もしばしばで。安心した。
けれど戦士としての彼は、彼が彼の世界に行ってしまっては、やはりまだ
「遠いな…」
学校と特別な用事でも無い限りは、存外他人行儀なのだ、あたしたちは。
窓から漏れる光が妙に眩しくて、かなめは手をかざすと洩れる光が虹色に見えた。
アレみたいだな、アレ。なんだっけ、なんとかドライバ。
なんだっけアイツの、そう。想いがカタチになるんだっただろうか…。
「―ソースケ……。」
心細い、会いたい。
……ピンポーン……
「わっ、何?!」
にわかに玄関から音がして、かなめはベットから文字通り飛び上がる。
あまりにタイミング良く鳴るものだから、それがインターホンのチャイムだと気づくのに時間がかかって、
モタモタしていると二度、三度、しつこくチャイムが鳴らされた。
「はいはい、うっせーわね、今あけるわよ…!!」
どーせ回覧か何かだろう、今度の町内会は少々偏屈で煩いからやんなっちゃう。
そんな事を思い、勢いに任せかなめは一気にドアを開け、目を見張はる。
「む……千鳥、居たのか」
そこには無愛想な少年が、先程心に浮かべた相良宗介が立っていた。
(え?何これ?―夢?)
先程までどこか遠いところに居ると思っていた、会えないと思っていた。
でも無性に会いたかった…、その彼が目の前に居る。
「千鳥……?」
ドアが開いて顔を合わせたまま、硬直しているかなめを訝って宗介が尋ねた。
やがて、はっとしてかなめがようやく口を開く。
「………うわ、ホントに出た。」
「何が出たのだ?」
「いや、こっちの話。ていうあんたこそ居たの?」
「居たぞ」
「どうしたの? 何か急ぎの用事?」
かなめがきょとんとしていると、宗介はどこかそわそわと目を泳がせた。
少し困ったような素振りを見せ、それから
「ああ、その…そう、散髪をしようと思ったのだが、中々上手くいかない。
また君の世話になろうと思うのだが?構わないだろうか?」
自分の前髪を摘まみながら言った。
言われて見ると、ボサボサの前髪が少々伸びた様な、気がしなくもないが。
「…そんなに伸びてない気がするけど、…まあ良いわよ?
よっぽど気になるんでしょ? 真直ぐうちに来るなんて。」
突如現れた宗介は野戦服に身を包み背中には大きなバックパックを背負っていた。
どう考えても『仕事帰り』で、その上で直接かなめの家を尋ねたと見える。
「あ、ああ。 そんなところだ。」
「……?」
幾らなんでも帰って先ず散髪をしたいと思うのだろうか…?
それ以前に、いくら宗介でも、事前に一報くらい入れないのもおかしくないか…?
行動があまりに計画性を欠いていて、かなめは少々訝しげに思いつつ、まあいいか、と気軽に彼を家に上げた。
宗介の後ろをついて行くかなめの足取りは、軽い。
驚くより何よりも、かなめは彼の訪問が、嬉しかった。一縷の望みが繋がった様なそんな気分だった。
―なんか嘘みたいだけど。 ソースケが居る。 ソースケが。
久しぶりに見る制服以外の彼がなんだか新鮮で、初めて会ったような気分だった。
―やだ、なんでだろう、凄く、ドキドキする。
無意識のうちかなめは前を行く宗介の背中に羨望に似た視線を投げかけていた。
するとやがて、後頭部から背中にかけて少々汚れている事に気がついた。
「まーた、随分暴れてきたの?」
「?」
「それでソファーに座るのは勘弁してね、後ろ、ドロドロ。仕方ないなもう。」
少々呆れ声でかなめは言った、でもちっとも嫌そうではない。
「……む…すまん、迂闊だった。 そもそも散髪をして貰うのだから、風呂くらい入った方が良いな。
やはり出直す事にする。」
「あ、ちょ、ちょっと待って!! いいよ、面倒だし、うちの使って?!」
「し、しかし…それは。」
「いいって。 上着は洗っとくから洗濯機に入れといて。 タオルはここ、石鹸とかテキトーに使っていいから。 じゃ。ごゆっくり!」
「待てちど…」
―バタン!!
そう言って押し込むように宗介を風呂に入れた。
強引に扉をしめたので、中で頭を打ったのか『痛い』と聞こえた。
「……。」
かなめはドアを背に暫く立ちつくしていた。
こう易々と男の人に風呂を貸すなんて、とんでもない事をしている自覚はありつつも、
なんだかこのまま彼に帰って欲しくなかった。
やがて、浴室から勢いよく水が出る音や、何か擦れるような音が聞こえて来る。
それが妙に生々しくて、かなめは恥ずかしくなって居間に避難して彼を待った。
「で、では宜しく頼む」
宗介は洗面所に用意された椅子にぎこち無く腰かけた。
「あ、うん。」
かなめは宗介の後ろに立ち、彼の堅い髪を櫛で梳かしていく。
あがり立てホヤホヤの宗介は、ホンワリと湯気が立っていて、当然自分と同じ石鹸の匂いがした。
その上かなめはTシャツの隙間の背中に玉の汗がついてるのを見てしまった。
「どうした?」
「……えっ?! あーごめんごめん」
スポーツの後の、男の子の爽やかな色気というか…
宗介にそう言った類のものを感じてしまい、かなめはドギマギ目を泳がせている。
その上、自分と同じ生活の匂いがまとわりついてるなんて、なんかこう、まるで家族みたいだ。
「き、昨日は、仕事だったの? 早かったねソースケ。びっくりしちゃった。
あんたの事だからさ、今日も日本に居ないのかとも思ってたんだけど。あはは。」
気を紛らわすように、やたら明るくかなめが尋ねた。
「いや、確かにもう少しかかる筈だったのだが。なんとしてでも終わらせた。
……なかなか無茶な作戦だったのだがな。」
宗介は真直ぐ前を向いたまま応えた。
「なんとしてでも…て?」
「…む?」
「今日は何か、やりたい事とかあったの? 戦争以外にあんたの趣味って? …まさか散髪する為に空けてるわけじゃないでしょ?」
かなめの声が耳元で振動した、
息がかかって宗介が微動し、わずかに赤くなっている、かなめは気づいていないが。
「いや。今日は俺はその、何だ……」
「まいっか、あんたの事だからロクな事じゃないかもだけど。
趣味を持つのは良い事よ。朴念仁が珍しい事もあるのねー」
妙に歯切れの悪い返答をする彼をほっておいてかなめはクスクス笑う。
「………まあ、そうかもしれんな。……君は今日はどうしていた?」
「…うっ、それは…」
突然宗介に聞き返され言葉に詰まる。かなめは今日…ごろごろしていた。
「何も無いか? ただ所在無くしていたのか? 友人は?会わないのか?」
どだい予定スカスカのかなめに、止めを刺すかの如く、やたらしつこく宗介が聞いてきた。
「…まあ、全部その通りなんだけど、返す言葉も無くてすいませんねって感じなんだけど。…あんたに言われるとメチャクチャ腹立つわー…。」
「そうか、それは良かった…」
その時宗介が深々と嘆息を漏らしたが、かなめから見える事は無かった。
「あんですって?!」
かなめは額に血管を浮き上がらせて口の端をひきつらせた、かと思うと、突然ションボリ項垂れたのが宗介の横目に見えた。
「だって……なんか皆忙しいみたいなのよねこの時期。」
「何故だ? クーデターでも起こるのか?この時期。」
宗介は至って真顔でのたまった。
「なわけないでしょうが?! ほらクリスマスとかの前だから。…なんつーの。 カップルはお忙しーわけですよ、イチャイチャと。」
「イチャイチャ?…がよく分からんが、君は忙しく無いのか?」
「うるっさい!しつこいってのよぶぅあーか!!」
「???」
宗介が小首を傾げて困った様な顔をしている。
かなめは今朝からの杞憂や、心細さが途端嘘みたく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
何時の間にか強張っていた頬が緩み、気持ちが軽くなっている。
突然野戦服で現れたり失礼な事言ったり…。
彼の言動がどんなに滑稽でもそれが、寂しさすら、あたたかいもので埋めてくれる気がした。
孤独にそっと寄り添ってくれる様な、ほっこりした気持ち。
―悪くないな…こういうの。
「あの、ソースケ。 実はさ。 急にあんたが来てビックリしたんだけどさ。」
「なんだ」
「ソースケが来てくれて、よかったかも。」
「……な。」
「うん、ほんと。」
手を動かしながら、かなめがまた、語りかけた。
「…?」
「……広すぎるんだよねー」
「何が…だ…?」
先程からずっと鏡の中の宗介が不思議そうな顔をしている。
かなめは鏡ごしに彼を見ながら、続けた。
「この家ね。 お母さん居ないから…部屋余ってるし。…独りで住むには広すぎて。静かで。
柄にも無いんだけど時々ちょっと心細いっていうか。参ったよあはは…。」
力無く笑うかなめを、宗介がじっと見守っている。
「だからだけど、どうしようもなく誰かに居てほしくなる時がある……
ってソースケに分かる?」
部屋の隙間は、かなめの心の隙間だった。
相変わらずの宗介にほだされ、かなめはそれを素直に吐露した。
恭子にも、ハッキリ言った事は無いような『事情』だったのに。
宗介は天を仰いで眼を閉じている、どうやら真剣に考えてくれているようだ。それがかなめには嬉しかった。
「………ふむ。」
さらにまた逡巡し、言葉を選びながら続ける。
「つまり、君は俺がここに住んだ方が都合が良い、と言っているのか?」
「ふぇっ?!」
ガシャッ
かなめは素っ頓狂な声をあげ、ハサミを床に取り落とした。
「…ばっ、なんでそうなってんの? なななっなんであんたと、
あんたみたいな戦争ボケと…あたあたあたしがっ?! あんたの頭はどうなってんのよ…バカ…!!」
「ちっ…違うのか? しかし俺が居る事が君にとって良い事で、一人は心地悪く、部屋が空いていると言った、となると、そのなんだ、それが君の要望では無いのか?」
宗介は早口で言い訳した後、滝の様な汗を流しつつ色々と考える素振りを見せた。
かと思うと、やがて真っ赤になってうなだれ「希望的観測はナントカカントカ」と呟いて舌打ちした。
「要望では……無いな。いや全く、早合点だすまん。
生憎俺にはそういう風にしか聞こえなかったのだ。すまん。」
かなめは赤くなった頬を隠す為に、ハサミを拾うのにわざと手間取っている。
「ばか、ばか…」
―当たらずとも遠からず。
自分の発言を振り返れば確かにそう受け取れるではないか。
というよりも、そういう気持ちもどこかにあったのでは無いか…?
かなめがそんな事を考えていると、よほど焦っているのか宗介がまだ何か、ベラベラと喋っていた。
「良く考えれば解る事だ、俺を君の家に置くなど…、有得ない。………俺自身こらえられるかどうかも…約束できんしな。」
「…もうバカもうバカ…ん?最後なんか言った?」
「いやなんでもない幻聴だ」
宗介が白々しくうそぶいて、かなめが怪訝な顔を鏡越しに見せている。
が、それ以上追及されないらしい事にほっとして、宗介が口を開いた。
「それは誰でも良いのか?」
「え?」
宗介は一呼吸置いて、視線を鏡の中のかなめに戻してから言う。
「君は誰かに居てほしいと言うが、…例えば常盤…いや小野寺や風間でも構わないのか?」
「げっ…御免こうむるわね。」
「では…」
「……その。……それは。」
「それは…?」
鏡ごしでも彼の縋る様な眼は、かなめの心を容赦なくしめつける。
…何故だろう、今日は何時になくコイツが自分に向かってくる気がする…。
宗介の真剣な眼に根負けしたようにかなめが口を切った。
「とっ特別なのっ! ……そういうのは!」
「特別…なのか?」
「そうよ、悪い?!」
「いや、悪くない…特別か。」
どこか言葉を噛みしめる様に宗介は繰り返した。
「……うん?」
「『特別』ならいいのだ。」
かなめが鏡越しに伺うと、宗介が満足そうに小刻みに頷いていた。
「ところで千鳥、前の方を頼む」
「…はっ?!」
かなめは迂闊にもボーっとしていたところ突然話しかけられた。
「千鳥、何を驚いている?…いや、前髪が。
梳かしてくれたのは良いのだが、実は先程から目に突き刺さって…。」
そう言った宗介の眼は充血している。
宗介の注文も無理ない、かなめは宗介の後頭部に必要以上にかかっていた。
直に向かい合うのが何だか無性に気恥かしくて往生際悪く時間稼ぎをしていたのだ。
切るところも無いのに、同じようなところを一ミリ二ミリいじって。
「…へーへー。注文が多いわねったく」
かなめがしぶしぶ宗介の前方に立つと、ふいに宗介から声をかけてきた。
やはり、今日はやたら彼は絡んでくる。
「千鳥その。明日も君は暇を持て余しているのか?」
「むかっ…うん。そうだけど…悪かったわね…。」
「そうなのか。…千鳥、出来れば休日も何か予定を入れろ、人と居た方が良い。」
「だーかーらー… あんたケンカ売ってんの? 分かってんのよ、んなこたあ。 でもこの時期皆忙しいの! あたしは暇だけどね!ふんっ!!」
そう言って『恋人にしたくない贈呈品イーター』のかなめがそっぽを向いた。
「何を怒っている?……ふむ、それならば俺が君と居よう。」
「はっ……?」
鏡越しでは無い、本物のかなめの瞳を宗介の真摯な眼差しがじっと見つめている。
何時の間にか、かなめの胸が早鐘を打っていた。止められなくて、かなめは動揺する。
「俺は明日も空けているのだが。 その…ごほん。君さえ良かったらどこか……、どこか行くか?」
はっとした。
宗介が何としてでも帰りたかった理由は…。
―もしや……
急速に気持ちが、嬉しい気持ちが泉の様に心の底から湧き出しているのが分かる。
―彼は―…。
「マジ……で?」
眼も見れない、素直に嬉しいと言えない、かなめは自分をもどかしく思う。
「俺は何時でも大真面目だ。何か問題があるのか?」
宗介が少し、へそを曲げた様な顔をしたので、かなめはますます慌ててしまう。
「だって。おか、おかしいよ…ソースケがそんな事言うなんて…。」
「おかしいか?」
「うん……。今日のあんたは最初から変よ。 何時も変だけど1000倍くらい変。」
「むぅ……なかなか酷いぞ千鳥。」
「だって…」
そう言って上目で恐る恐る宗介を見る。
おずおずと、宗介もどこか恐れる様にかなめを伺っている。
空気に互いの緊張が溶けている気がした。…ドキドキする。
やがてその張りつめた空気を宗介が破った。
「実は、聞いてほしいのだが。」
「…うん?」
かなめは無意識に何かを彼に期待して、胸が押しつぶされそうな心地がしていた。
「俺は今やパートタイマーだ、組織に属して命令に従う義務も無い。比較的時間は作れる。」
「そうなの?」
「そうなのだ。 それで、通常学校に通う分には、俺は君についていられる。
だが、このような休日は、四六時中付いて回るわけにいかなかった、以前であれば。
作戦のほか、定期的な報告義務や、ASのメンテナンス立ち会い等…優先しなければならない事があったのでな。」
(……?)
何時の間にか話が組織だの任務だのに流れていて、途中からあまり聞いていなかった。
自分の分からない世界だ、かなめは何となく疎外感を覚える。
「……ソースケ、仕事の話ならあたし良く分かん…」
「しかし情報部の人間はやはりアテにならん、だからその、休日だろうが警戒を解くべきでは無いと俺は判断した。」
「……」
だから、明日…。そうかそういうことか。
彼のさっきの言動は義務感からだったのだ…。
かなめはそれに気づいて、先程の高揚が一気に落胆へと変わるのが分かった。
と、同時に急に彼がどこか冷たく、遠く思えた。
「念の為、大佐殿の許可も得た。…それで」
(大佐殿?)
『あの子』の…あの子の指示なの?
あの子に何の罪もない事は分かっていた。子供じみているとも思う。
けれどあの少女の面影がチラついた途端、かなめはある種の感情を抑える事が出来なくなった。
「……ふーん、それは仕事熱心な事で。相良軍曹殿。」
かなめは無表情に、突き放すように言った。
彼女の急激な変化に、宗介も流石に気づいたようで、彼の表情が途端強張る。
「いや……そうなのだが、そうではない、その」
何かを弁解しようとしている。
何を弁解する事があるのだろう?かなめは冷ややかにそう思った。
―あたしの知らないとこで、あの子の言いなりになって「はい分かりましたサー」とか言ってんだわどうせ。
さっきのだって、あの子の入れ知恵かもしれない。
「あーめんどくせーわね、つまり何? 監視モニターでも増やす? 風呂とかトイレにも付ける?」
勝手に語気が強まる、でも止められない。
「違う!!」
「だからどー違うっての? ハッキリ言いなさいよ、あんたは何時も何時も!!」
「心配だ、俺は君の傍に居たい。」
「…は…?」
「ハッキリ言った。」
宗介は、迷いの無い澄んだ眼でかなめを見据えていた。
「あの」
「…俺で無くても良いかもしれない、誰かが傍に居た方が安全なのだ。
だが、なるべくなら俺自身がそうしたい。」
「他人を…巻き込むなって?」
「それもある、だが違う…俺の為だ。 君を一人にして置くのは耐えられない。
しかし俺意外の誰かの手に委ねる事もしたくない。 誰かで無く…君には俺を頼って欲しい。
それで……俺はただ君に傍に居てほしいのだ。 でなければ心配だ。」
そう言って宗介はしかられた子供の様な表情でうつむいた。
「驚いた。」
かなめは驚いていた。
宗介がこんな風に、自己中心的な事を言った事に、である。
「それって…つまりあんたの我儘じゃない」
俺に頼れと、傍に居ろと…、宗介はただ我儘を言っているに過ぎない。
そこには戦略も、義務も命令も無く、あるのはただ、彼の感情のみで。
「…すまん、そうなるな。…すまん。」
ますますうなだれる宗介の顔を両手でつかみ、かなめはグイと持ち上げる。
「こら、髪、切れないでしょーが!」
それから、満面の笑みをかなめは浮かべた。
「千鳥? …怒ってないのか?」
彼女の表情の変化についていけず、宗介は混乱しているようだ。
「なんの事?」
「いやその…」
「心配…してくれたんでしょ?」
「何時も心配だ…。」
言って、宗介がまたうなだれるので、かなめは顔を持ち上げて言う。
「じゃあ、なるべく今度から来る時は電話してね。
あのね、突然女の子の家にあがるなんてのは、すっげー失礼なのよ?」
「…すまん、今日は…実はその。散髪の用事では無く、ただ君の様子が気になって…」
「うん、知ってる。」
宗介は気まずそうに呟いたが、かなめはニッコリ笑って言った。
「あたしもその、ちゃんとソースケに頼るから。 困ったら、呼ぶから。」
「ああ、その方が助かる」
「そう、なんだよね。ごめんね、あたし苦手でさー、こういうの。へへへ。」
頬をぽりぽり掻きながら言って、かなめは甘え下手の自分を恨んでいた。
自分と彼の距離を遠ざけていたのは、他でもない自分だったのかもしれない。
宗介はそれを分かってたのだろうかと、かなめは確信めいた気持ちになる。
「あのさ。ソースケ。」
散髪を再開して、かなめは言う。
「なんだ」
「あたしにはソースケしか居ないのよ。」
「いや、そんな事は。君には沢山」
「本当なの」
伏し目がちにかなめが呟く、長い睫毛が影になっている。
「そうか、なら遠慮するな何時でも駆けつける。」
「ありがと。」
「俺は、君を護る。必ず。約束する。」
「ありがと…。…嬉しいよ。」
力強かった、あたたかかった。涙がこぼれそうになってやっとの事で止めた。
嬉しいと言ったら。
終始苦い顔だった宗介が、一転して信じられないほど晴れやかな顔をしたから。
それがあまりに滑稽で、愛おしくて、心がまた、温かなもので満たされていく。
当然の事のように居てくれる、何時も見守ってくれる。
宗介からかなめに向けられていたのは、とてもあたたかでかけがえのない気持ちだった。
それでいてそれはどこか、かなめには懐かしく感じられて、それから思い出した。
柔らかな、温かい手が、今より少し幼いかなめの髪をなでている。
母親の悲しみを目の当たりにして素直に甘えられなかった、
気を遣っていた、母が病気になってからはもっとそうだった。
ある日突然母親が言った。
退院したら、海に行こう、山に行こう、動物園に行こう。
自分を困らせた。そんな事言うなんておかしいと、笑った。
雨だったら一緒に本を読もう。
約束した。
晴れでも雨でも。春も夏も秋も、寒い冬も。ずっと傍に居ると。
それから、もっと甘えて良いと、もっと頼って良いと、抱きしめてくれた。
傍に居る。
『約束』は未来を織りなしてくれるから、続いていくのだ。
ずっと一緒に居れる、約束があるから大丈夫。
そう思っていた。
「千鳥……」
「……はっ」
「どうした? 何か問題でも…。」
宗介は、ひどく心配そうな顔をしていた。
「え?そお? やだなー何でも無いよ! ホント! う、うはははは……」
「………」
それきりその話は終わった。
かなめが黙ると、穏やかな沈黙が訪れ、ハサミの擦れる音だけが響いていた。
その音に聞き入りながら、宗介がぼんやりと鏡越しのかなめを見ている。
焦点はややかなめから外しており、控えめにかなめの様子を伺っているようだった。
かなめは丹念に宗介の堅い毛をとかしては、少しずつ少しずつ切りそろえる。
口ぶりや素振りとは裏腹、その手つきは丁寧で、優しい。
「ソースケそろそろ終わるからちゃんと前向いてよねー…ん? ソースケ?」
それは、以前彼の髪を切ってあげた時と全く同じ状況であった。
「あぁ~、また……。」
かなめが宗介を覗き込むと、すでに彼は安らかな寝息を立てて眠りに落ちていた。
あの時と変わらずに、可愛い寝顔で。
「……」
気持ちが数ヶ月前に戻る、かなめの気持ちもあの時のまま、いやもっと、苦しい。
胸がきゅっとしめつけられる。
あの時、キス、すれば良かったのかもしれない。
かなめは何時か激しく悔んだ事を思い出す。
キスしたら、ちゃんと伝えていたら、宗介は居なくならなかったのかもしれない。
ずっと傍に居る保障なんて、無いのだ。絆なんて脆いのだ。
彼がどんなに頑張ってくれたって、自分から大事にしないと、求めないと、簡単に壊れてしまう。
もっとこうしとけば良かった、ああしとけば良かったなんて、後で悔やんでも遅い。
置いていかないで、一人にしないで。傍に居て。
あの時伝えられなかった言葉が今、洪水の様に溢れだしてくる。
今度こそ。失いたくない。
かなめは、引き寄せられるように近づいていく。
自分の唇に暖かい彼の息がかかって、そして……
―駄目
その時、頭の中で何かが警鐘を鳴らした気がした。
「……!!」
次の瞬間洗面台に腰を強く打って、はっと我に返る。
すんでのところで怖じ気づいて身を引いてしまったのか?
いや、違う、自分の頭の中で何かが引っかかっている…何かが。
(どうして?どうして逃げるの?…何? 頭がグチャグチャする。)
様々な感情がない交ぜになって、かなめは混乱した。
何かが酷く怖いのだ、今朝起きた時の、おぞましい喪失感が蘇るかのような…。
3年前 雨の日 未来
繰り返している。その全てに共通して存在する、喪失が。
「しないのか?」
その時ふいに声がした。宗介の声が。
―起きて…た?
…驚きよりも、何よりも、時間が止まったかに思えて、言葉が出なかった。
金縛りにあったかのようにかなめは大きな瞳だけを宗介に釘付けにしていた。
「な、何をよ…?」
返事が無い代わりに宗介がじっとこちらを見つめた、
どことなく不機嫌なニュアンスをを漂わせ、鋭い眼でかなめを見据えている。
自分の心の内を全て見透かしているような気がして、思わず目を逸らした。
「しねーわよ!…そっ…その、やだなーもう冗談よ、からかっただけ、本気にしないでよね」
うははと誤魔化そうとした、しかしその言葉が彼の中の引き金を引いてしまった。
彼には珍しくムキになって、しかし至って低い声で言った。
「…何故君は、その様に俺から逃げる?」
「え?」
次の瞬間、
ぐいと腕を引かれたかと思うと、宗介と自分の唇が軽く触れ合った。
「ちょっ」
「悪いが俺は冗談は通じん」
驚いて反射的に後ずさると、離れた唇を追いかけるように宗介が、今度は深くかなめに唇を落とした。
「ふっ…」
荒々しい追随とは裏腹に、優しい温度が唇を包み、彼の舌が丁寧に歯列を、頬の裏側を舐めていく。
薄眼を開け良く見ると、彼の瞼が小刻みに震えていて、
乱暴に抱き寄せたかに思えた彼の腕は不器用にかなめの背をさすり、また強く抱きしめた。
あたたかく、優しく、それでいて激しかった。
「…っ……俺が、恐いのか?」
「……ちがっ…んん。」
あの雨の日、奪われた時とは、違う。全く違う。
唇の柔らかさも、口内を滑る舌も、彼の熱い息も、溢れる唾液すら、何もかもが
愛おしくて、心が震え、目眩がするほどの快感を覚えた。
こうなれば良いと望んでいたのかもしれない、まるで自然な事のように彼を受け入れている。
体の内から溶けてしまいそうだった、ずっとこうして絡み合って居たいと眼を閉じると、
かなめは目の前が真っ白に晴れていくのを感じて、突然膝を支える力が失われた。
「千鳥……」
「あ…や…」
抱きかかえる宗介の腕の中でかなめは正気に帰った、けれど目が合って、強く惹かれて、また捕らわれる。
それは彼も同じようで、どこか夢をみるような、熱い眼でかなめを見つめている。
何時の間にか、日が傾いていた。
どうでもいい事だと思いながらも冬の夕暮れの早さに驚く。
夕日がかなめを照らし、怖いくらいにキレイだと、宗介は見惚れる。
「君は、一体何を怯えている?」
「……それは…んっ…」
発しかけた言葉は再び彼によって、塞がれる。
「…や…またっ、ソースケ何すんのよぉ…」
「……こうでもしなければ君は、泣いてしまいそうだ。」
「え…。」
「今日会ったときからずっとそうだ。」
そのまま宗介がかなめを強く抱きしめた。
「言えないなら良い…。ただ、もっと君から頼って欲しい。……でないと護れない。」
宗介がかなめの耳元で悔しげに唸る様に、低く漏らした。
途端にかなめの感情が、関を切った様に溢れだす。
涙が、止まらない。
彼を信頼してないわけではない、そんなはず無い、でも恐いのだ、恐い。
これ以上近づいて、愛して
失うのが酷く恐い。 日常、友達、……そして彼を。
かなめは宗介にしがみついて尚、嗚咽をこらえて泣いている。
その姿が痛ましくても、己が不甲斐なくても、宗介はただ抱きしめる事しか出来なかった。
「……ごめんもう大丈夫…。今日は…帰って。」
宗介の胸元を両手で支え、かなめは出来る限りやんわりと、彼を拒んだ。
宗介の顔に傷ついた様な色が浮かび、かなめの胸がズキンと痛む。
永遠の様な沈黙が続き、やっとの事で宗介が口を開く。
「……ああ、その。……すまなかった千鳥俺は」
「別に、謝ることは無いんじゃない? ていうかあんたね、他に言う事あるんじゃないの?」
かなめは努めて明るく、そう出来るだけ普段のノリで彼に接した。
宗介はにわかにほっとした様な表情をしていたので、かなめもつられて胸をなでおろす。
それから彼は逡巡して、言葉を探す努力を見せたくせに。
「……今日は。髪。 感謝す、いや………有難う。」
なんとも無骨な礼をした。
「うん」
かなめはおかしそうに笑った。
「その多分、もう少し時間がかかるから…。ごめん。」
玄関先まで来て、かなめがふいに呟いた。
宗介はただ小刻みに首をふって、何も言わない。
けれど彼の眼が酷く不安気で『心配だ』と訴えていたので、かなめもそれ以上何も言わなかった。
それから暇を告げ、煮え切らない気持ちで宗介が振り返ろうとしたその時。
「宗介、また明日。」
かなめが扉の隙間から顔だけ覗かせて、恥ずかしそうに笑いかけた。
その仕草に、ますます別れ難い気持ちを覚えながらも、宗介は言葉を返す。
「また明日……。 うむ。電話する。」
言い残した彼の約束がこそばゆくて嬉しくて、また愛おしさがこみ上げる。
けれども、束の間の別れが迫っている事に、かなめの胸は苦しくなった。
また、寂しくなる。
失ってもまた見つけられるだろうか。 胸の風穴は、埋まるだろうか。
これからも彼と一緒に…――
ずっとこんな日が続いたならと、かなめは遠ざかる彼の背中に祈った。
千鳥さんはギリギリまで頑張って本当にまずい!というところまで泣いたり、助けを求めたり出来なさそうだなと思います。
そこらへんに宗介は結構早い段階から気づいてヤキモキしてたよーな?気がします。
あとあの状況で一人で3LDKというのは心細そう過ぎるので、空いてる部屋は遠慮なく使っちゃえば良いのにとか。
後々そういうネタをやりたい為、布石エピソード的な話でした。という事で続きが書ければなあ…と。
しかし長い、すいません!
タイトルは真っ当に訳すると拾得物預り所になってしまいます。…あんまし意味はありません。
◆
かなめは頭痛を噛み殺す。
しかし胃まで到達した泥の匂いが吐気を誘う。
空気は湿気を含みすぎて重く淀んでいた。
夢を見ていた。
中学生の時の夢だ。
暗い道を走っていた。
大嫌いな雨が降っている。 いや、その時は嫌いでは無かったのかもしれないが。
それはいい、逃げなくては。
‥‥頭が痛い。
もうお母さんは居ない。妹も、父すら居ない。自分は独りぼっちだ。
「生意気なのよあんた」
「調子のんな」
「バーカ」
浴びせられる罵声。
無視しても、抵抗しても、どこまでも、どこまでも追いかけてきた。
ぬかるんだ泥道を裸足で走り、懸命に足かく。
けれど上手く力が入らない、同じところで足踏みしている様な気すらする。
‥‥頭が痛い。
――助けて、助けて!
だけどもう居ない、大好きなお母さんも、誰も‥‥。
残酷な少女たちの言葉とドロドロとした、漆黒のコールタールの様な‥‥何か得体の知れないものが容赦なく彼女を追い詰める。
やがてその黒い何かが彼女の足元を捉え、あっという間に身体半分飲み込んでしまった。
――いや、イヤだ、離せ!!
彼女は尚、必死であがいてもがくけれど、もがけばもがくほどコールタールの海に身体は沈んでいく。
息が苦しい、声が出ない。頭が痛い。
――お願い、誰か‥‥誰か‥‥‥‥
もう誰も来ない事は解っていた、それでも尚、悲壮に満ちた魂で、彼女は呼び続ける。
――助けて‥‥
しかし無情にも黒いドロドロは彼女全てを飲み込んでしまった。
――駄目だ、もう‥‥
力尽きた彼女を待っていたとばかりに底なしの闇が喰らおうと口を開け、その奥底で何かが囁いた。
‥‥も‥‥解って‥‥‥‥お前は私の‥‥世界‥‥リセットを‥‥
何故か解った、それは決して聞いてはいけない声。
気丈に封じてきた魔物。それが弱みにつけ込んで今箍が外れようとしている。
外から聞こえていたと思われたそれは、やがて鮮明に頭蓋で反響を始める。
過去と未来が交差しようとしている、時間の概念が乱暴に捻じ曲げられようとしている。
頭が酷く痛い、今在る自分の存在の根底が削除される、恐い、恐い、恐い。
――いや‥‥。
――いや、いや、そんなのはいや‥‥!!
強く願った、その時。
――!!
何かが闇を切り拓いた、いや、原始的な力でこじ開けた。
それから自分の手を掴んで、次の時には一気に闇の中から引きずり上げた。
強いたくましい力、そして温かい力。
決して彼女の手を離す事無く暗闇から明るく輝いた世界へと連れ出してくれた。
それはボンヤリとした光。
――‥‥誰?
雨は何時の間にかあがっており、自分は中学生ではなかった。
頭上には突き抜けるような青空と太陽、そして隣には彼女を未来永劫照らしだす確かな光。
彼女はゆっくりと歩み寄る。
――‥‥ねえ、あなたは、一体。
触れようと手を伸ばす。
――‥‥‥‥誰?
触れた。
掌に、温もりが伝う、じわじわと孤独が埋まる。
その光はあまりにも眩しくて、優しくて、両の眼から勝手に暖かいものが伝っていた。
◆
アセトアミノフェン
リン酸ジヒドロコデイン
カルボシステイン
(‥‥‥‥?)
どこからか訳の分からない、恐らくは化合物か何かの羅列が聞こえてくる。
例によって『持病』の電波傍受だろうか。‥‥いや違う、聞き覚えのある声‥‥。
「ぶつ‥‥ぶつ。 臭化水素酸デキストロメト‥‥、塩酸メチルエフェド‥‥」
かなめがぼんやりと目を醒ますと、そこには見慣れた顔があった。
ザンバラ髪にへの地口、力強い、しかし心なしか充血したような眼。
「ソースケ‥‥。」
それまでなにやら書類に眼を通していたようだったが
呼ばれるや否や、その相手はハッと振り返って大きく目を見開いてじっとかなめを見つめた。
しかし暫くすると、普段どおりの落ち着いた、冷静な態度で返した。
「‥‥千鳥、気付いたか。」
「‥‥うん。‥‥あたし、寝ちゃったの?」
「そのようだ。、昨日の夕方から。君はその間ずっと眠っていた。」
そう、と眠そうに頷くと、かなめはうーんと伸びをしながら言う。
「あたた‥‥、あーなんかボーっとするー。 今何時ぃ?」
「3時だ、夜中の。」
「そう、3時、‥‥て3時?!」
「間違いなくそうだが。」
「‥‥ソースケ。ずっとここに居たの?」
「ああ。」
「あの‥‥ずっと看病、してくれた、とか?」
「‥‥いや、その‥‥」
宗介は否定も肯定もせず、ただただ落ち着き無くアチコチ目配せしていた。
そこでかなめはふっと自分の右手の感覚に気付き眼を落とす。
「あっ」
「むっ‥‥」
なんと自分の右手と、宗介の大きな手が繋がっていたのだ。
瞬時にお互い手を慌てて引っ込めた。
「す、すまないこれは、その‥‥」
「い、いや‥‥」
なんともぎこちない、気まずい空気が流れる。
その時かなめは、繋いでいた右手がしっとり汗ばんでいる事に気付く。
随分長い間‥‥繋いでいてくれたのだろうか‥‥。
恥ずかしさが臨界点に達して、間が持たないかなめは無意味にケータイを手に取り弄るが‥‥。
リダイヤルを見るや、眼を疑った。
(え、何この発信履歴‥‥。)
昼前の恭子へのものは覚えている、恭子の着信に対してかけなおした時のものだ。
会話の内容も。
「カナちゃんが居なくて相良くんが物凄く寂しそう」とか「多分相良くん帰りにお見舞いに行く」とか、そればっかりだが。
問題はその後、数分おきの数回の発信、それは全てその宗介に向けたもので。
‥‥確か恭子と話した後、急に具合が悪くなったのだ。
高い熱が出て、身体中のアチコチが痺れた様に痛くて、嫌な夢をたくさん見た。
内容は良く覚えていないが、恐怖と悲しみの欠片がまだ胸に刺さっている感覚がある。
熱くて、痛くて、恐くて、このまま一人で死んじゃうんじゃ無いかって。
恐くて、寂しくて。‥‥そうだ、その時だ。あたしは無心に彼を呼んで‥‥。
「あーごほん。その、なんだ。 君はどうやら流行性ウィルスによる感冒らしい。」
突然宗介がうそ臭い咳払いをして喋り始めた。
「えっ、あ。 ‥‥感冒、ああ風邪。 やっぱそうなんだ。」
「しかし、こいつがどうも拗らせると厄介らしい。 昨日の君のように酷い高熱にうなされる様だ。それも1週間」
実のところかなめの容態はもう少しで脳に影響を及ぼすのでは無いか、という程重かった。
が、宗介は黙っていた。
「げっそれマジ?サイテー。 あれ‥‥でもあたし、今割りと平気だよ?」
「そうだろうな。治療は既に施した。」
宗介はにわかに明るい眼で堂々と言い放った。どこか待ってましたと言わんばかりだ。
「え?そーなの?! お医者さん呼んでくれたの?」
「いや、医者など必要ない」
「は?」
「このウィルスは新種だ。ウィルスは時に人類を存亡の危機に晒す恐るべき兵器になり得る。
だから、これに関しては民間の医療機関よりも、我々ミスリルの方がより高度でより確実な知識と対処法を所持している。」
「‥‥つまり?」
「情報と必要な物資を取り寄せた。 これがまた、なかなか手こずった。
何しろ、治療薬の物質の一つが揮発性でな。真空パックから取り出すと数分で気化する。 だから調合して直ぐに投与しなければ効果が無いのだ。」
「‥‥つまり?」
「俺が調合した。」
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
「そして既に注射した。これを」
宗介は胸をはって、その調合物を差し出す。
濁っていて、試験管の中で何かブクブクと細かい気泡が躍っている‥‥。
理科の実験でスチールの板を溶かした時と良く似ており風邪薬というよりも、どう見ても酸性の劇薬にしか見えない。
成分分析をしてみよう、例えば某解熱鎮痛薬の半分は「優しさ」で出来ている。
一方この目の前の液体はどうだろう、その半分は「ボケ」で出来ているのではないだろうか?
かなめの脳裏に意味の解らない映像が浮ぶ。
戦争ボケがコタツでみかんをもごもごしながら、冬の風物詩の風邪のCMに出ていた。
その傍らで自分に良く似た仔猫と、ムスっとしたとこがチャームポイントの仔犬がみかんを転がしてじゃれていた‥‥それはどうでも良いが。
何を宣伝したいのか正直解らない、ボケがみかんを食べているだけ、いやチラリと一度コチラを見た、つられて犬と猫も。目が合った、ユルイ。なんというやる気の無さ。
そして最後に『死の総合感冒薬』というテロップが流れ‥‥。
「うわああああああああああああああああ!!!」
突然かなめは暴れ出した、まさに狂気の沙汰。
すっかり落ち着いていた心中を宗介は再びかき乱された。
「どうした千鳥」
「死ぬ!絶対死ぬ!!」
「落ち着け、言っただろう、君には治療を施した!俺が調合した薬で!!」
「だから死ぬ!!余計死ぬ!!より、一層盛大に!!」
「わ、訳がわからん!!」
「ていうか、揮発性とかそういうのって血液にぶち込んじゃって良いわけ?
点滴の管に空気入れてさ、これでノブヒコさんは私のものよくくく‥‥とか。
ほら、殺しちゃうじゃない?火サスとかそういうノリよ。 い、今更だけど大丈夫なの?!」
かなめがご丁寧な演技を交えて必死な訴えをしているが宗介は余計混乱している。
「カサス‥‥?ノブヒコ? いや、問題ない、揮発性物質といっても投与すると直ぐにヘモグロビンの合成、修復を経て、効率的に体内に送り込まれる‥‥、とこの書類にもある、今読んだのだが。」
「‥‥へーなるほどねって今読むなっ!!
投与する前に読みなさいっ‥‥‥‥ってあれ‥‥‥‥‥‥。」
がばっと半身を起こして、ソースケに強く言おうとするが、その瞬間世界が廻った。
「千鳥‥‥!」
「‥‥‥大丈夫、ずっと寝てたから、ちょっと眩暈が‥‥。」
「全く病み上がりなのだ、無茶をするな」
「ごっごめんなさい‥‥‥‥‥‥。」
死ぬだのなんだのわめいたが、あれだけ騒げれば最早健康だ。
今更ながら自分の行動をかなめは恥じて大人しく呟いた。
それから、宗介が再び酷く不安気な表情で彼女を見ている事に気付く、おまけに徹夜の作業で憔悴の後が色濃く残っていた。
「ごめんね。」
申し訳なさと、嬉しいような複雑な気持ちが入り混じった表情でかなめはもう一度言った。
心許無げにはにかんだその表情は、初めて見る彼女で、経験値の乏しい少年の心を打った。
そんな事など彼女は気付きもしないが。
宗介は謝られているにも関わらず、彼女に酷く悪い事をしたような気になっていた。
罰が悪そうに俯き、いや、だの、う、だの呟いて、それからそそくさと台所の方へ引っ込んでいった。
「ソースケ‥‥‥?」
何時も以上に謎の行動をとる彼を訝って向かった先を見やると、直ぐに彼は戻ってきた。
皿か何か、手に持っている。かなめに近寄るとおずおずとそれを差し出して、言った。
「千鳥‥‥その、これを。」
「‥‥?」
差し出したそれは、リンゴだろうか。なんとも不器用な‥‥妙なカタチをしているが‥‥。
「ん‥‥‥‥これもしや、ウサギさんリンゴ?」
「ウサギさん? ウサギだったのか?この切り方は‥‥。」
「あんたは何だと思ってこれを‥‥。というかどうしてこの形に?」
「いや、君は何時もこうして出してくれるだろう。 俺は通常林檎は丸かじりと決まって いるのだが、この形状だと、心なしか普段より美味い気がして。 そういう特殊な調理 術では無かったのか?」
「は‥‥‥‥?!」
ウサギ林檎にタネも仕掛けもある筈も無い。それをこのバカは‥‥。
そうじゃないのよ、と正しく教えてあげたかったが‥‥。
かなめは無骨な手で一生懸命リンゴに細工を施す彼を想像する。
以前自分が何気なくそうした事に、小さな感動を覚えて律儀に彼は心に刻んでいたのだ。
そして今、こうして弱った自分にその想いを返そうとしている。
そんな場面が、彼の不器用な想いが、ウサギだかなんともつかない林檎に詰まっていて、かなめは何も言えなかった。
「常盤に、病気の際には何か喜ぶものを贈るのが常識と聞いた」
「‥‥えぇ?キョーコってば‥‥。」
「しかし、すまない。焦っていて‥‥。目ぼしい物も見つからず、つまらない物だが‥‥」
「ううん‥‥、美味しいよ。」
「まあ、ウサギだからな‥。」
「それに、嬉しいよ。」
「そうか、助かる。」
それからかなめが食べ終わるまで、二人が言葉を発することは無かった。
けれどそれは、決して居心地の悪いものでは無い。
窓はびっしり結露しており透明な玉が外の光をボンヤリと屈折させている。
外の寒さを伺わせたがこの小さな空間はとても暖かい。
「ソースケ‥‥」
ふいにかなめが言葉を発した。
「む?」
「有難う。」
「いや‥‥。」
「助けてくれて、有難う。」
「ああ‥‥‥‥‥‥‥‥」
壁の方を向いてかなめは言ったので表情は見えないが、声は僅か震えていた。
「人間、一人じゃ生きてけないから。」
「‥‥‥‥そうだな」
また二人は黙ると、遠く響く車の音だけが聞こえている。
一瞬全ての音が途絶えた。その時突然、宗介がぽつりと呟いた。
「とても、心配した‥‥。」
小さな小さな、控えめな声。けれど音の無い世界でそれは確かに響いた。
かなめはまだ起きていた。
彼はそれを察しているのだろうか?彼女は思うが、宗介は自分の想いが聞かれていも、構わなかったのかも知れない。
願わくば届く事を‥‥、そんな控えめな告白だった。
その低く、穏やかな声はかなめの耳に心地よく残って、勝手に涙がこぼれ落ちる。
するとふいに、掌に温かな感触が宿った。
――どうしてだろう?どうして彼は手を握ってくれるのだろう?
かなめはふと不思議に思った。
孤独には慣れた、強くなったつもりだった。
けれど。
ただそれらに背を向けて生きていただけだという事を、直視しないで居ただけだという事を、ふとした瞬間思い知る。
例えば、日常と言うパズルから大事な1ピースが欠けたとき。
例えば、一人恐怖に怯える時。
そうして同じ波長で呼び合った二人は手と手を重ねる、何故だろう?
それはきっと。繋いだ先に、温もりが、存在が在るから。
誰も、一人では生きてなどいけないから。
全く別の道を歩んできた二人だけれど、心の奥底に深く刻まれたそれを誰より知っていた。
本当は、孤独など嫌いな二人。その声にならないコミュニケーション。
かなめはゆっくりと、目を瞑る。
視界に闇のスクリーンが下りる。
――だけど、ほら、もう大丈夫よソースケ。
目を閉じても、例え彼女を待ち受けるその闇がどれ程深くても決して。一人じゃない。
冬の風物詩を・・・と思って軽い短編のつもりで書いたら、なんだか大事に。;
一人暮らしで死ぬほど苦しい病気をした時ほど、心細い事は無いなと思ったことがあります。
病気の当人もだけども、カナちゃんが学校に居ないと、宗介もきっと寂しかろうと。笑
そんな話ですが、割と宗介の内面をテーマにする事が多いんですが、今回主に千鳥さんの事を。
宗介が過酷な人生を歩んでるのは勿論ですが、千鳥さんもとても気の毒な子だなと思います。
きっと何か根底にあるものは二人とも似ているのじゃないかなー。
そんなこんなで、またもワケワカランファンタジー感バリバリでスイマセン。
色々薬の事とか嘘っぱちです、後生ですから流してください。;
ご拝読感謝します。
放課後、宗介は帰り道の商店街を彷徨い、困り果てていた。
常盤恭子。
大人しそうだが、妙な色眼鏡で他人を判断しない殊勝な人物だ。
しかし同時に、かなめの友人だけあってしたたかな少女だと宗介は思う。
あらゆる難解な作戦も突破してきたというのに、一人の少女に出された難題に宗介は困窮を極めていた。
一体何を贈れば喜ぶというのだろうか。
やはり優れた最新の武器など‥‥いや受け取るのは俺じゃない、彼女だ‥‥。
以前ならこの時点で失敗しているところだが、気付いたあたりが進歩と言えるのか‥‥。
残念ながら解決策は見だせなかったが。
多分きっと、懸命に悩みあぐねた時間こそに価値があるものだ。それが届けば何でも良い。
実際、友人想いな恭子の真意はそこだった。
彼女の事ばかり考える少年が教室で見せた不器用な想いが、空回りに終わるのは不憫だったから、
親友である彼女にもどうにか伝わらないものか、と。
しかし宗介は自分の行動にそういった無形価値が存在する事等知らない、というよりも自分の行動が彼女に良しと働く自信がそもそも無い。
最終的に彼は選んだには、選んだ。
(しかし本当にこれで‥‥)
『―ヴーッヴーッ』
その時、内ポケットのPHSのバイブレーションが振動している事に初めて気付く。
着信開始から大分ほったらかしていたようで、宗介が通話ボタンを押す前に、最早誰からの着信であるか確認すらしない内に、呼び出しのバイブレーションは止まってしまった。
(一体誰から‥‥)
宗介はおもむろにPHSの液晶画面の着信履歴を確認しようとして、愕然とした。
received calls
16:55 CHIDORI
16:36 CHIDORI
16:33 CHIDORI
16:24 CHIDORI
かなめからの複数回の着信、数分間隔で、何度も何度も。
それはまるで、助けを求め縋るような‥‥。
「千鳥‥‥!!」
考えるより早く、踵を返して宗介は駆け出していた。
◆
かなめのマンションに辿り着きエレベーターを待つが、間の悪い事になかなか降りてこない。
胃が焼けるような不快感がどこからかこみ上げ、苛立ちが冷静さを奪っていく。
「くそっ!!」
宗介は拳をエレベーターホールの壁に叩きつけると、非常階段を猛烈な勢いで駆け上った。
勢いあまって踊り場の壁に衝突しかけ、壁を蹴って跳んだ。
前髪が視界を遮る。
(構わない。)
己の肉体を破壊しかねないほどの運動過多をセーブする装置が在るとすれば
恐らく宗介のそのスイッチは切れているだろう、筋肉が軋み少し息が上がっている。
(構わない。)
プロとして恥ずべき判断、それが何だ、今更だ。
(構うものか!)
驚くほどのスピードで、かなめの部屋の前に辿り着く。
「千鳥!?」
インターフォンも鳴らさずに宗介は叫ぶ。扉は沈黙している。
ここで迷う理由は一つも無い、事務的に、日常動作のようにテキパキとセキュリティを解除した。
それから即座に合鍵を取り出し彼女の部屋へと突入する。
「千鳥っ!!」
部屋を見回す、かなめは‥‥聴覚を最大限に研ぎ澄ます、居る、寝室だ。
「はあっ‥‥はあ‥‥」
「‥‥千鳥!! しっかりしろ、大丈夫‥‥か」
宗介は言いかけて思わず言葉を飲み込んでしまった。
かなめは攫われていた訳ではない、怪我を負ったわけでもない、しかし、宗介の顔からみるみる血の気が引いて行く。
ベッドに横たわるかなめは、苦しげに肩で息をしていた、その苦しげな表情、息遣いから尋常でない事が見て取れる。
しかしそれ以上に、生死の境を彷徨った人間の顔を何度も見てきた彼には解る。
かなめの容態は深刻だ。
「‥‥ソー‥‥ケ?」
虚ろな表情でかなめが宗介を見つめる。
何故そんな顔をするのか?と眼が語りかけている。
「ぁ‥‥‥‥‥‥」
かなめが何か言おうとして口を動かしている、が声が出ない。
「千鳥?‥‥だ、大丈夫、問題ない俺が‥‥俺が君を助ける。」
「ごめ‥あた‥‥し‥‥‥‥‥」
かなめはどこか、申し訳なさそうに、何かを伝えようと喘ぐ。
しかし声にならず、喉の奥からゼーヒューと熱い湿った呼気が洩れるだけだった。
「苦しいのか?辛いのか‥‥、大丈夫喋るな、大丈夫だ、俺が来た。」
「‥‥‥‥ぉ‥‥‥ぇ‥‥‥」
宗介はかなめの唇の動きで、彼の名を呼んでいる事を察知した。
ソースケ、ソースケ、ソースケ
苦しみの中で、繰り返し、何度も、何度も。
熱の為か化粧もしていないのに、その唇は鮮やかに紅く、湿り気を帯びて艶やかだ。
「千鳥‥‥。 大丈夫、大丈夫だ。」
いたたまれない。
戦場でもないのに、宗介は久しい『恐怖』を感じていた。
『大丈夫』なんて根拠も無い。不安で不安で仕方が無い癖に、それしか言えない、なんと情け無い事か。
それに、なんと不謹慎かと彼は自責していた。
彼女が言葉を発せたとしたら、どんな声で自分を呼ぶのだろう、是非聞いてみたいと思ってしまったのだ。
必死に自分を求める彼女に、得体の知れない感情が身体の芯から湧き上がるような心地がしていた。
まるで制御不能な機械が今にも暴発しそうに体の中心でくすぶっている、今まで感じた事も無い感覚、それに酷く動揺していた。
「‥‥‥‥‥‥ぇ‥‥」
かなめは相変わらず、まるで無意識下の様に彼を求め、手を伸ばした。
「千鳥‥‥、千鳥‥‥。」
宗介は呼びかけに応え、せめてその手を握り締める。
そして初めて気付いた、かなめは震えている、いや怯えているのだ。
宗介はやはり動揺していた、しかし、それらの混沌としたものよりも明白なのは。
彼女が、大切で、大切で、掛替えの無いものに思えて仕方が無いという感情。
宗介は震える彼女の手を、強く握り締めた。
それからかなめが僅かに微笑んだ気がした、しかし応えることは無かった。
「千鳥‥‥‥‥?!」
かなめはそのまま意識を失い、宗介は蒼白の表情で彼女に縋る。
続く