椅子の上にどっしりと腰を落ち着け、相良宗介は腕組して思案していた。
不揃いな前髪の奥で引き締まった眉をしかめる。
何だろうかこの違和感‥‥
何時もの学校、何時もの教室、何時もの級友達‥‥
周りの風景は普段どおりの筈なのに。
宗介はちらりと腕時計をみた。
そう、時間だ。
この時間には既に、何時もある筈のものが、無い。
「相良くーん」
「妙だ‥‥」
「ねーさーがーらーくーん、てば!!」
考えあぐねて居たところ、突然視界にピョコンとお下げの少女が飛び込んできた。
級友の常盤恭子だ。宗介は僅かに動じるが直ぐに落ち着きを取り戻し訊ねる。
「常盤か、何だ?」
「相良くん、カナちゃん今日欠席だって、知ってた?」
「いや‥‥初耳だが。 そうなのか?」
その時ようやく解決した。今朝からの違和感、その原因。
そう、千鳥かなめが居ないのだ。
「‥‥どうかしたのか?」
「んー。‥‥ちょっとね。」
恭子が意味深に返答した。
その様子を宗介は訝って、さらに情報を得ようと試みる、が。
キーンコーン‥‥‥‥
「あ、授業始まっちゃう。 じゃ、またね相良くん。」
「なっ、待て常盤一体何が‥‥!!」
始業のチャイムが鳴り、恭子はスタコラと自分の席に着いて話しが終わってしまったのだった。
疑問が疑問のままでは、宗介の心中穏やかでない。
彼はギコチ無く椅子に座ると、額から幾筋もの汗が流れ始めた。
(何故?何故千鳥は来ないのか?)
事件か?
事故か?
拉致か?
はたまた
食品偽装問題か?
僅か数秒の間に信じられないほどネガティブで陰気な憶測が宗介の脳内を飛び交う。
「常盤‥‥何を隠している」
「相良くんは、その物騒なものを隠しなさい。」
陰鬱な表情で横を見ると担任の神楽坂恵里が困り顔で立っていた。
それというのも、あろう事か授業中に宗助が武器という武器を机に並べて整備点検を始めていたからである。
「はっ!これは申し訳有りません。物思いに駆られており、つい。」
宗介が上官でも相手にするかのような口ぶりで言うと、恵里は深い溜息を漏らした。
「‥‥はぁ~、あなたは物思いに耽ると『つい』こういう危ないものを弄り回すわけね。 『つい』ね‥‥。うんうん人間誰しも良くある、良くある事かも知れないわね。 うんうん‥‥。」
「そうでしょうな。」
宗介は然もありなんと応える。
「‥‥なわけないでしょう‥‥。 まあ相良くん、今回は良いから早くしまって教科書を ‥‥、あっ」
恵里は宗介を手伝おうと手を伸ばした拍子に、何か円筒形の物体を取り落とした。
「むっ‥‥、いかん!!伏せろ!!!」
「え?きゃあああああああ!!」
――バシュウウウウウウウウウ!!
床に落ちた衝撃でM18スモークグレネードがやかましい音と共に炸裂し、あたりはたちまち煙に巻かれた。
棒立ちの恵里、床に倒れ伏せる級友達。
(またやってしまった)
という遅すぎる後悔の後、宗介がすべき事は決まっている。
「くっ」
そう、次なる衝撃に備える事だ。
大抵は自分の予測の斜め上を行く事が大半なので、それを防ぐ事は毎度ほぼ不可能に近かった。
今日は上からか、下からか、はたまた‥‥。
「‥‥‥‥?」
しかし何時まで待ってもそれは来なかった。来るはずが無かった。
目が醒める様な鮮烈な衝撃。そう、かなめによる折檻は、今日はある筈が無い。
「そうか‥‥‥‥。」
ボロクソな周囲の非難には耳も貸さず、宗介はスプリンクラーのシャワーに打たれてただただ立ち尽くしていた。
◆
それ以降、宗介は何時ものように『張り切って』馬鹿をやる事無く。
非常に大人しかった、というよりも非常に暗かった。
スプリンクラーのシャワーでびしょ濡れになったにも関わらず着替えようとも乾かそうとすらせず、じっ‥‥と自分の椅子に座ったまま。
「相良君カビかキノコでも生えちゃうんじゃあ‥‥」
「いや寧ろヤツ自身が菌類の類に思えてくるぜ‥‥」
色々といわれている事など気にも留めず、時々うわ言のようにぶつぶつ言うだけだった。
恐いくらいの平和な時間が過ぎ、4時間目の終業と共に昼休みに突入する。
あまりにも大人しい(暗い)ので、逆に恐くなったクラスメイトの一部は宗介を観察していた。
「アイツなにやってんの?」
「飯食うんじゃねえの? ほら、カロリーメイト」
「あ、でも、机にしまったよ?」
「いや、また取り出した‥‥取り出して‥‥首を捻って‥‥‥‥」
「またしまったよ?」
「早く食えよ‥‥‥‥」
しかしそこで、突然宗介がカバンを持って立ち上がったのでクラス中に緊迫が走った。
本人はまるで自覚が無いが、注目の中宗介の次の言葉が紡がれる。
「常盤、俺は帰るぞ。こうして居る間にも千鳥は脅され、仕方なく自らの衣類を脱ぎ、仕方なくその身を‥‥」
「違うよ!!ていうかなんでそうなってんの?! なんでカナちゃん先ず脱ぐの!?なんて助平なの相良くん‥‥。」
恭子は軽くドン引きして顔を引き攣らせている。
「ち、違うのか‥‥? いや、しかし帰る! 堪らないのだこの違和感‥‥。まるで何時もと何もかもが違う、調子がおかしい。」
「相良くん?」
どこか焦りを見せる宗介に恭子が不思議そうに首を捻る。
「おかしい、おかしいのだ何か‥‥
そう、例えばだ。この時間なら、今頃千鳥が弁当を馳走してくれている。しかし今日は違う。
‥‥この違和感が激しい脱力感を誘う、何だ? 何故俺はこの様に動揺する? この胸騒ぎは一体。」
「いや相良くんそれって‥‥」
「常盤、教えてくれ。何故、何故居ないのだ千鳥は。」
宗介がついに話の核心に触れると、恭子はしばし何か言いたげに黙ってそれから。
「うん、しょうがないなあ。」
やれやれとジェスチャーをして、話し始める。
「あのね、カナちゃん風邪ひいちゃったの。」
「風邪?」
「うん。 なんか昨日の夜‥‥、色々張り切っちゃったらしくて、ね。」
「何を、だ?」
「例のごとくお弁当‥‥ううん、やっぱり何でもないよ! ごめんこれは相良君には、言えないなあ~。あでも大丈夫、変な事考えないでね?」
「‥‥うむ」
納得がいかない、と表情に丸出しだが宗介はなんとか頷いた。
「兎に角帰っちゃ駄目。さっきカナちゃんに電話したけど、まあ‥‥大丈夫だと思うし。 それに古典の授業だけは絶対出るようにって私念押されちゃったんだよ相良くん。」
「そうか、‥‥しかし本当に‥‥」
「もーー、そんなに気になるなら相良くんも電話してみたら良いじゃない、カナちゃんに。」
「‥‥いや‥‥しかし特に用事がある訳でもなし‥‥」
宗介はかなめに電話をよこす事はこれが初めてではない。
任務の前後など、これまでなんども、それも造作無く。
しかし‥‥。
「そんな事ないよ、様子が気になるんでしょ?これって立派な用事。」
「‥‥い、いや‥‥。」
恭子の後押しも虚しく、宗介は躊躇いがちに俯くだけだった。
恭子の発言により彼女の無事は確認した。
最早任務という大義名分がある訳ではない、それなのに彼女に電話をするという事は‥‥。
それは突発的でどこか独りよがりなような‥‥
しかも彼女との関係の中で、新しい試みのように思えて酷く躊躇われたのだった。
用も取り付けも無いのに電話する関係とは、それでは、まるで‥‥。
「やはり俺は帰ろうと思うのだが‥‥目視で無事を確認する。(こっそり)」
「駄目だって!!行くなら放課後によりなよ。」
煮え切らないこの朴念仁の態度に温和な恭子も業を煮やしたのか少し強い調子で返した。
「しかし」
「もーーー見てらんないなあー。あてられちゃうよ。」
「?」
「カナちゃんの親友として絶対帰らせないからね!!その代わり良い事教えてあげる。」
恭子は人差し指をピッと差し出して言った。
なんだか少し楽しそうな様子だが‥‥、宗介は至って真剣に聞き返す。
「良いこと?なんだ?」
「カナちゃんに何かプレゼントしてあげて。うんと喜びそうなもの。 病気の人にお見舞い持ってくのは常識なんだよ、それにカナちゃん、きっと元気になるから。」
「そ、そうなのか?」
宗介は異文化に触れた外国人の心境だ。
「そうなの、ただしいっつも相良くんがあげてるような変なのじゃ駄目だよ?!
カナちゃんが喜ぶもの、よーーーく、考えてね!」
「むう‥‥イマイチ自信が無いのだが、常盤すまないもう少し明確に‥‥」
「だあーめ。これは相良くんの問題だよ。じゃ、頑張って・ね!!」
恭子は可愛らしいウインクを宗介にバチッ☆となげかける。
対して宗介は、への字口のぶすくれた顔をさらにしかめて返す。正直失礼極まりない。
続く
およそ初めて書くまともなSSだったもんで、具合が分かりませんでした;よもやこんなに長くなるとは・・・;
タイトルからしてネタバレでしたけど、VMC~OMO間に釣りデートを是非!させてあげたかったのですね、
あと、宗介に是非、告白再チャレンジして欲しかったんです。
時間があるのならもう一回くらいトライしただろう、きっと。(笑
この長ったらしいSSを書いた動機といえば、本当にそれだけなのでした。
で、原作の合間の話ということなので、その後の展開や設定を歪める事はしたくなかったし、出来なかったのです。(季節の設定は歪みまくってますが)
なので、自分としては、告白大成功でちゅーでもぶちかましてやろうかと思ってたんですけど、(笑)
この後も尚、彼らは手を繋ぐのも恥ずかしいような間柄なわけで・・・。
なので話を引き伸ばして期待(?)させた挙句肩透かしな展開でした。スンマセン;;
その上、どこかで書いたようなオチでした。スンマセン;;
余談ですが、ちゃんとした告白話はまた別に書きたいのですよ。
最後の話はなんともダラダラ意味不明になりました。
書きたいこととか言いたい事とか有り過ぎて、上手い事まとまらなかったなあ~と残念無念ではありますが、書けて良かったです(笑
何はともあれ、長いお話にお付き合いくださり、何より最後まで読んでいただき本当にお疲れ様です、そして有難うございました!
注!!
おまけエピローグです。ぱっぱと書いたネタものです。
個人的には無い方がいい気がするんですけど;話を締める為に書きました。
本当にネタまみれなので、これまでの流れを壊したくない方は読まないほうが良い、かも?
エピローグ
「本当に釣れない……」
宗介は静かに釣竿を動かしてそう呟いた。
うっかり忘れてしまいそうだが、宗介は昼間から今までずっと釣を継続している。
本音を言うと、彼女にどうしても大物を釣ってやりたかった。
今日、彼女は楽しい事も、安らぎも全部、与えてくれた。それがとても嬉しかったから。
彼女と居ると、なんだか何でも出来るような気がして、自信はあったのだが……。
「上手くいかないものだな」
一人ごちてまた静かに釣竿を揺らし、それから膝の上に横たえた彼女の横顔を見つめた。
自信を持てるのはきっと、彼女が居ると、パワーを分けてもらった気になるから‥‥それもあるのだけれど。
何よりも『彼女の為だから』なのだ。
幸せそうな彼女の顔を見ていて、ふいに宗介はそれに気付いた。
「よし。」
宗介は一人意気込んで、釣竿を振り下ろした。
******
「うーんむにゃ‥・・トライデント焼き‥・・全メニュー半‥・・額‥・・‥・・はっ!!」
瞼の裏に突然太陽の光を感じて、がばっ!とかなめは漫画的な起床をした。
「あ、あれ‥・・あたし。 なにしてたっけ?」
眠い眼をこすり見渡すと、そこは見慣れた自分の部屋。
かなめは自分のベットに寝ていた。
「‥・・あれ? 確か‥・・」
記憶を辿りながら、何気なく自分の着衣に目がいった。
フリルの付いたチュニックキャミソール、ショートパンツ、これから寝るような格好で無い、これは‥・・。
「あっ!ソースケと‥・・」
確か小笠原諸島付近の海域の無人島に遊びに行ったのだ。
釣をして、それから何時の間にか眠って‥・・。
「ま、まさか‥・・」
かなめの脳裏に教育上不適切な、それはそれは破廉恥な妄想が浮かんでは消え浮かんでは消えした。
「ちちち違う、違うわよ、何考えてるのよ‥・・! 有り得ない、あの朴念仁に限って‥・・!」
かなめは気を取り直して、今一度記憶を辿ってみた。
「その後、どうしたんだっけなあ」
すると突然に、よく解らない映像がフラッシュバックした。
狩猟民族に狩られた鹿のように運ばれる自分。
何か袋状のものに詰められ芋虫のように寝る自分。
盆踊り会場のような何か。間抜けた音。
「何故、電球が点灯したのだ? 何故消えない?」とかいう叫び声。
と‥・・その後何発か発砲音がしたような‥・・。
映像がそこまで浮かんだら、かなめはフラッシュバックを強制終了させた。
「いやー無事帰還できたようで良かった良かった。」
かなめはうんうんと頷いて、船の無事の事とか持ち主の事とかクルツの立場とか、
そういうのは深く考えないことにした。
それからダラダラと服を脱ぎ捨てながらリビングへ移動し、コーヒーフィルターとマグカップを取り出す。
気付けにブラックを飲みたい、と電気ケトルのスイッチを入れるのだった。
コポコポコポコポ‥・・‥・・
「‥・・楽しかったなあ。」
お湯が湧く間、かなめは昨日の想い出に身を浸す事にした。
何故だろう、妙に幸せな気持ちが胸に広がる。
二人で過ごして、楽しかったから、それで十分な理由になるけれど、確かもっと‥・・。
カチッ
電気ケトルが小気味良い音を立て、沸騰を知らせた。
「なんだったかな‥・・あいつ、何か言ったような‥・・」
かなめは回想しながら、フィルターにお湯を注ぐ。じわりじわりと少しずつ、慎重に。
やがて湯が染みてゆっくりと、濃い色のコーヒーがカップに落ちていく。
その様子を見ていると、同じ速さで、昨晩の出来事もゆっくりと抽出される気がした。
やがて、少しずつそのイメージのカタチが浮かんで来る。
アイツの真剣な目、そして‥・・、言葉。
『君に会えて嬉しい。』
「‥・・‥・・はっ、あっ、あつッ!!」
突然の事に酷く動揺して、フィルターではなく手にお湯を引っ掛けてしまう。
「あーもうバカ‥・・何やってんのよ。」
取りあえずタオルで拭いたけれど、なんだか気持ち悪い。
「先にシャワー浴びようかな‥・・」
かなめはそう呟くとコーヒーを諦めバスルームへと向かった。
「嬉しい‥・・か。」
あの時、あたし、寝ぼけてたんだっけな?
「ちゃんと、起きてれば良かったな。」
そしたら、もしかしたら、言ってしまっていたかもしれない。
かなめは昨日着ていたキャミソールを引っつかんで、顔を埋めた。彼の匂いがする。
「‥・・好き‥・・って」
別に誰も聞いていないけれど、口に出して言うと酷く恥ずかしかった。
「うはは‥・・な、なに言ってんだろ‥・・やだなもう!」
かなめは照れ隠しに妙に明るく言い放って、それから『バーン!』と、元気よくバスルームのドアを開ける。
「うっ」
刹那、かなめは凍結した。
「きやぁああああああああああああああああああ!!」
バスタブには、敷き詰められた氷、そしておもむろに巨大な魚が横たわっていたのだ……。
「な‥・・なによこれぇ‥・・‥・・」
わなわなと震えながら、その巨大魚を良く良く見ると、その図体にぺったりと紙が張り付いており、
そこにはマジックで『昨日のお礼だ、君一人で食すと良い』と書いてある。
「あ・い・つ・は‥・・」
かなめはバスタブの淵を砕けんばかりに握り締め、その身をわなわなと震わせた。
「一・人・で、喰えるかーーーーーーーーーーーーーー!!!」
バスルームには、かなめの雄叫びがこだまし、ついでに磯の香りが充満していた。
これでは暫く風呂に入れない。
******
「ったくもう!!」
仕方が無いので、かなめはとっとと魚を捌いて、目にも止まらぬ速さで『二人分』に調理した。
「邪魔するわよっ!!」
それから直ぐに向かいのタイガースマンションに駆けつけ、とある部屋の玄関のドアを蹴飛ばし、突入。
機動隊も真っ青な所作だ。
「む‥・・どうしたのだ千鳥。 なんだ、魚臭いのだが。」
既に起床していたらしい住人、宗介が直ぐに飛んできた、心なしか目が充血している。
「じゃかしゃあっ!! 風呂っ!借りるわよ!!」
そう言ってずけずけと彼の部屋に侵入した。
「あ、それからこれ、朝ご飯ね。あんたも食べなさい。有り難く!」
そう言うと、粗末なテーブルにわざわざ持ち込んだらしい炊飯器と、朝ご飯と呼ぶには豪華な食事を置いて、かなめはバスルームに消えた。
と思ったら今一度顔を見せ。
「覗いたらぶちコロ●わよ!!」
と一言付け加え、ぴしゃりと戸を閉める。
朝っぱらから嵐のような出来事に、わけも解らず宗介は棒立ちしていた。
それから暫く考えて。
「‥・・良いのだろうか。」
そう言いつつも、宗介はいそいそとご飯を茶碗に盛り、かなめの作った『カツオのタタキ』を有り難く食す。
「うむ、美味い」
昨日に引き続き今日も、素晴らしい時間が過ごせそうだ。
そんな贅沢な日々に、誰にとも無く一人宗介は感謝をするのであった。
終わり。
後書きへ
「‥‥それにしても、釣れないね。ソースケ。」
「まあ、こういう日もあるのだ。」
「あはは、そうかもね、ドンマイ。‥‥でもあたし、楽しかったな‥‥。」
「そうか‥‥。」
「うん、連れて来てくれて有難う、ソースケ」
そういって、今度は彼の膝に頬を寄せる。
「いや、俺の方こそ。良い時間を過ごさせて貰った、君には感謝している。」
「ふふふ、大袈裟なヤツ。 でもソースケ、凄く良い顔してたよ‥‥」
「そうか‥‥」
宗介は、彼女の言葉を噛締めるように眼を閉じる。
それから暫くその心地よい空間を共有するように黙り、五感を研ぎ澄ました。
あたりは静寂に包まれている。けれど先程の様に寂しいものではもう、無かった。
夜風は涼しく、波音は耳に心地良い。そして膝の上に、かけがえの無い少女の温もりを感じる。
何か話をするでもなく、ただそれだけで、そこに居るだけで。
彼の心は温かいものに満たされ、言いようの無い幸福感を覚える。
この気持ちを、この幸せな感情を得た事を。どう言葉に尽くせばいいか解らないけれど。
「‥‥感謝しているんだ、本当に」
宗介はそう言って、まどろむ彼女の髪に触れてみた。
「‥‥‥‥ん?‥‥そーだね楽しかったね‥‥」
かなめは尚も寝ぼけた様子で、頬を寄せて微笑む。
「ああ、楽しかった。」
「ん‥‥ふふ」
「有難う、嬉しかった。」
笑ってくれて、喜んでくれて。それから、何時も大事な事を教えてくれて。
かなめはぼやけた視界の中にも、宗介の真摯な眼差しだけを確かに感じていた。
「‥‥どうしたの?」
「‥‥言わなければならないんだ」
「‥‥‥‥ん?」
だからここまで来たのだ。
そう、伝えなければ。
溢れそうな程の喜び、感謝の想い、
郷愁、憧憬、それから独占欲。
白と黒だった自分の世界を彩る様々な『情熱』。
それらを何と呼ぶか、彼にはもう解っていた。
だから、伝えなければならないのだ。
「君に会えて、本当に、‥‥その、良かった‥‥」
宗介は訥々と、吐き出し始めた。
「本当に‥‥嬉しかったんだ。 だから‥‥」
なかなか言葉を紡げず、彼の言葉は闇の静寂に溶けて行く。
暫しの沈黙が二人の間を訪れた、その時。
黙って聞いていたかなめが唐突に彼の首に両手を回した。
「‥‥千鳥?」
少し驚いて、彼女の表情を伺うと、彼女は穏やかな笑顔を称えて、言った。
「ソースケ、あたし今ね、もー半分‥‥ノーミソ寝てるかも。」
イタズラに笑い、宗介を優しく引き寄せてそれから、
「‥‥だからなんだかね。」
うわ言の様に呟き、その深い色の瞳に宗介を映した。‥‥それから
「ちど‥‥り?」
それから‥‥。
「夢みたいだよ‥‥。」
それから、かなめはギュッと‥‥彼を抱き寄せた。
宗介はかなめの首筋あたりに顔を埋める形となり、鼻腔を甘い匂いがくすぐった。
「夢ではない」
「そーだね。‥‥ソースケあったかいもの。」
「ん‥‥。」
宗介は大人しく、諭される子供みたいに、彼女の言葉を聞いていた。
「あたしも、嬉しいよ。ソースケに会えて。 だからね、これからも‥‥こんな風にずっと‥‥」
「‥‥‥‥。」
かなめの腕の中で言い様の無い安息感を覚え、そのまま彼女とまどろみの中に落ちてしまいそうだった。
だけど、今ならば、いや今だから、言える、言わなければ。
「千鳥」
宗介は膝の上からかなめを抱き上げて、包み込んだ。
「その‥‥千鳥、俺は。」
そこで彼は一度俯き、深く呼吸して唇を引き結ぶ。
それから瞬秒後、覚悟を決める様に顔を上げると、彼は一気に吐き出した。
「俺は君が好きだ。」
言った。ついに‥‥言ったのだ。
去年のクリスマスから気付き始めた想い。
彼女を護りたい、彼女と共に居たい、ずっと。
そう願うならば何時かは伝えなければならない、そんな気がしていた。
「千鳥‥‥」
彼女は沈黙している。
彼女がなんと応えるか‥‥正直そこまで考えては居なかった。
だからこの沈黙が、いやに長く感じられ、そして、恐ろしい。
「‥‥‥‥」
長い長い沈黙‥‥、宗介は溜まらずダラダラと汗を流し始める。
「ち、千鳥‥‥?」
相変わらず返答が無い。
宗介はいよいよ、腹の底からふつふつと、根の暗い絶望感が沸いて来るのを感じ始めていた。
心なしか彼の周りの空気が重く淀んでいる様に見える。
けれど宗介は今回ばかりは根気強く、覚悟を決めて彼女に問いかけてみる。
「千鳥‥‥頼む、応えてくれないか‥‥。」
苦渋の表情で、宗介は返答を待つ。すると突然彼女が応えた。
「んーむにゃ‥‥」
宗介には到底理解不能な不思議言語で。
「ち、千鳥。 すまないがその、意味が解らないのだが‥‥。」
そう言って、かなめの顔を覗き込んだ。すると‥‥
「すーすー」
かなめはしっかりと眼を閉じ、穏やかな『寝息』を立てていた。
「‥‥‥寝て‥‥しまったの、か‥‥。」
宗介はがくりと項垂れた。
彼の一世一代の告白、それは何とも中途半端に未遂に終わってしまった。
宗介は思わず気が抜けてしまったが、同時にホッとした様な、命拾いしたような‥‥複雑な心境だ。
「うーん‥‥むにゃー。」
そんな宗介の気も知らず、かなめは彼の胸元で気持ち良さそうにムニャムニャ言っている。
そんな彼女を見ていると、それだけでまた、心は温もりで満ち足りた。
宗介は静かに、無骨な自分の手で壊さない様にと、注意深く彼女を抱きしめる。
すると。
「んー…?んふふ……ソースケー……?」
彼女を起こしてしまった様だ。
「肯定だ……」
宗介は申し訳なさそうに応えるが
「ソースケが居るー……、なんでえ~? でも嬉しいなぁー……、‥‥ むにゃ~」
かなめは頬を擦り寄せると、また直ぐに眠りに落ちた。
その表情は本当に幸せそうに見える。
「うむ。」
互いの気持ちは繋がって居るようだ。宗介は心底満足気に頷いて。
「今日のところは、これで良しとしよう」
まあまあの健闘をした自分に妥協を許すのであった。
だけど。
―君が好きだ。
―好きで、どうしようも無い。
―君に、言葉では伝え切れないほど感謝している……。
―…愛しているんだ…。
彼の内で、伝えられなかった想いが未だシンシンと、雪のように降り積もっていた。
何時か、何時か伝えよう。必ず。君に。
それまで俺が護る。この平穏を、安らぎを、君の居る世界を。
それからまた、静かに彼女を抱き寄せた。
エピローグ
今後バカップル全開です。恥ずかしくて死にそうです!
「ふ、ふぁあ‥‥」
かなめが突然大きな欠伸をした。
「千鳥、眠いのか?」
「うん、ちょっと、昨日あんまり寝て無くて」
そう言ってかなめは人差し指で涙を拭う。すると宗介が一瞬怪訝な顔をした後、ベラベラと喋り出す。
「昨晩‥‥どうしかしたのか? 一晩中何者かにレイザー・サイトで狙われていたとでも言うのか?
いや、有り得ん。 君の居住周辺の警戒は完璧だ。 不正に進入したら最後、俺の手の内で踊らせた挙句、
親類縁者問わず尋問に次ぐ尋問を施す。最終的には廃人だ。」
「‥‥あたしイヤな所に住んでるんだなあ‥‥。 あのねソースケ全然そうじゃないのよ、大丈夫。」
「む?」
何時もの誇大妄想っぷりには驚きだが『寝不足だ』というそれだけの理由で心配をしてくれたらしい。
「なんか、なかなか寝れなくて。 何着よっかな~、て一人で夜中にファッションショーしたり‥‥はっ!!」
宗介の過保護が嬉しかったかなめはついつい正直に応えてしまった。
(やだ、これじゃまるで物凄い楽しみにしてたみたい‥‥してたけど)
しかし、宗介はそんなかなめの機微など気付くはずも無く、物騒な意見を述べる。
「成る程、合点が行った。服選びには俺も時間をかける。
耐久性、防弾性、あらゆる状況を常に想定して不測の事態に備えねばならないからな。」
「はあ‥‥そうですか。」
「‥‥しかし、君は時間をかけて選んだと言うには‥‥。」
「‥‥ん?」
言うと宗介はかなめを一瞥して、直ぐに困った顔をして正面を向き直った。
「なんだ。 あまり大勢の前でそういった服装はしない方が良いと、思うぞ。」
「むっ、なんでよ! 不測の事態とやらには向かないから?」
途端にかなめが御機嫌斜めになり、宗介は歯切れ悪く答えた。
「‥‥それもある、それもあるのだが‥‥。その、なんだ。一般的な意味合いで言って無防備だ‥‥。」
言われてかなめは自分の服装を確認する。
肩口が大きく開き、胸元にふんわりしたフリルの付いたチュニックキャミソールと、見事な脚線を際立てる健康的なショートパンツ。
(‥‥ちょっとハリキリすぎちゃったのかなあ‥‥)
何時もより少し女らしく、可愛らしく、尚且つ色っぽく‥‥。
そういうものに関心を持つようなヤツじゃない事は解っていたけど、少しは気に留めて欲しくて、『頑張った』のだ。
昨日の自分を恥じるやら情けないやら、かなめは急に気落ちしてシュン、となる。
流石の宗介も、自分のせいでかなめが酷く落胆している事くらい解った。
そこで彼は、彼女に掛けるべき言葉を暗中模索する。
「‥‥今日は良いのだが。」
ようやく言葉を捻り出した。
「え?」
「俺個人の、意見としては‥‥悪くないと、思う。」
無愛想にそう、言い放った。
「‥‥ふーん。」
そういって、かなめは嬉しそうに微笑んで、彼との距離を少しだけつめて座り直す。
******
暫く宗介は、動きの無い海面と、移り行く空の景色を交互に眺めていた。
すると―、 ふいに左肩に『ふわり』と何かの重みを感じた。
「‥‥‥‥ん~」
「千鳥‥‥?」
そちらの方を見ると、かなめがコクリ、コクリと揺れながら、宗介の肩にもたれ掛ろうとしていた。
夢との狭間を行き来しながらも彼の肩に頼ってしまわない様、体勢を戻そうと努めている様だ。
その姿が彼女らしく、何だかとても健気に思える。
「大分眠いようだな、少し寝たらどうだ?」
そんな彼女に宗介は宥めるように促す。
「う、うーんでも~‥‥寄り掛かっちゃったら邪魔でしょ~‥‥」
「いやそんな事は無いが‥‥」
宗介は言うが、かなめは彼の隣からフラフラと離れる。
それからおもむろに後ろに回りストンと腰を降ろした。
「この方が楽かな‥‥? 悪いけど背中貸して貰うわね」
そう言うと、かなめは宗介と背中を合わせ、ゆっくりとその体を沈ませる。
かなめが背中で黙ると、あたりはシン‥‥と静まり返った。
その瞬間、ふいに彼女が隣に居ない事に、宗介は言い知れぬ不安を覚える。
(どうも、落ち着かない。)
夕暮れの静けさがどこか不穏なニュアンスを含み、空の色は少し褪せた気がする‥‥。
隣を見れば彼女が居て、笑っていて、嬉しくて。自分の顔も思わず綻んだ。
そんな風に長い時間過ごし、まるでそれが当たり前の事のように思えていた。
それが最早遠い昔の事の様に思える。
隣に居た彼女は今も、直ぐ近くに居るのに‥‥。 尚、恋しく思う。
背中には確かな重みと温もりが在る。けれど、今はそれだけが感じ得る全て。
その唯一の存在が無性に愛惜しく、掛替えの無いものに思え、彼の孤独に拍車をかける。
『郷愁』
突然宗介の脳裏にぼんやりと、その言葉が浮かんだ。
先日古典の授業で聞いたばかりの単語だ。
その時、不思議と彼はその単語の意味をすんなりと理解した。
理由は解らなかったが、そんな想いを知っているような気がして。
しかし今この瞬間、その理由が明白となる。
何時も、最後には『そこ』に戻りたいと、その隣に居たいと切望していた。
孤独を教えられ、恋しく想う、何時も会いたいと想う。
『郷愁』
彼にとって、かなめはその象徴だった。
唐突に悟った瞬間、彼はそんな自分をおかしく思った、けれど決して悪い気はしなかった。
だから、ごく自然な感情の横溢に身を委ねてみる。
決して一人ではないのに、一人よりも鮮明な孤独感。――それはとても不思議な感情。
無性に‥‥彼女の顔が見たい。
******
「むぅー‥‥」
背中のかなめが寝心地を模索してもそもそと身動きした。
まだ起きている様だ。
「千鳥」
「‥‥ん?」
「眠いところすまない、一つ頼みを聞いてくれないだろうか?」
「‥‥へ?‥‥なあに?」
かなめは不思議そうに顔だけ宗介の方を向く。
肩越しに見える宗介はただムッツリと穏やかな波間を見つめている。
暫くすると、背中越しに彼の肺が息を吸い込んで膨らんだのを感じた。
「‥‥隣に居てくれないか。」
宗介はゆっくり、息を吐き出すように言葉を漏らし、顔だけかなめを振り返る。
ところが次の瞬間、彼に『不測の事態』が訪れた、かなめがこちらを見ているとは思わなかったのだ。
振り返ると直ぐに、彼女の大きな瞳が飛び込んできた。
トロン‥‥と眠そうに半開きになっているが、二つの深い茶の瞳は不思議な力を湛えている。
万一彼女が敵であれば自分に命は無いだろう、身動き一つ取れないのだから。
息がかかるほどの距離。
唯一聞こえる波の音よりも互いの鼓動の音が大きく聞こえていた。
自分の内に、表面張力だけで保っているかのような『何か』が在る、
それに少しでも触れれば零れ落ちて、未知の衝動に呑み込まれる事だろう。
鈍感な宗介にもそれが解った。
顔が、唇が、無意識に引き寄せられる。
後数センチ‥‥
後数ミリ‥‥
ところが。
「‥‥ん~、ま、いいけど。」
突然かなめが間の抜けた声を漏らし、その緊張を突き破った。
「‥‥?!」
先程の感覚から急に身体が解き放たれた気がして、宗介は驚き目を見開く。
「‥‥でも、こうした方が疲れないんじゃない? どうして?」
半分まどろんだ様子でかなめが訊く。
「それは、その‥‥。君が後ろに居ると急に周りが寒々しくなると言うか‥‥」
今だ動揺を隠せず、しどろもどろ、宗介は応えた。
「あ~、ははぁ~~。 つまり」
すると、かなめは眠たい目で彼を面白そうに眺めてから
「‥‥千鳥‥‥‥‥?」
突然、宗介の肩に頬を摺り寄せた。
「寂しいのねぇ~~‥‥、ボン太くん。」
かなめは若干寝ぼけているようだ、そのままスリスリと彼の肩に頬を寄せる。
「俺はボン太くんでは無いのだが‥‥、その、そうだな前半の部分は、否定はしない。」
「ふう~~ん、そう‥‥‥‥」
彼女はそう言うと嬉しそうに尚もごろごろと頬を寄せてきた、その仕草はまるで甘える仔猫のよう。
「‥‥千鳥、あまりその、擦り付けると良くない。 顔が汚れるのでは‥‥」
「えー、そんな事無いけどー。 よっと‥‥」
そう言うとかなめは彼の背中から隣へと身を動かそうとしたのだが、眠い身体は想像以上に重たい。
彼の肩に乗せた頭を側面にずらそうとすると、その重みで全身のバランスを崩した。
「ふぁっ‥‥」
ぽすっ‥‥‥‥。
かなめは後頭部から何かに埋もれるように倒れ、次の瞬間、眼を開いた。
視界には夏の星座が映り、もうこんな時間なのね‥‥とまどろむ頭の端で思う。
それから視線少しを横に滑らせると、そこには。
「‥‥千鳥?」
そこには、どこか心配そうに見つめる宗介の顔があった。
「ご‥‥ごめん。」
「いや‥‥問題ない。」
バランスを崩して、かなめは宗介の膝を枕に寝転がる形になってしまったのだ。
男女が逆ではないか‥‥
それにこの格好では、宗介にまともに顔を見られてしまう。
寝ぼけた頭にもかなめは何となく気恥ずかしさを覚えていた。
だけど。
目の前には、都会では決して見ることが敵わない、プラネタリウムのような夜空が広がり。
それから、見守る彼の気配と、頬から伝わる彼の温もりが、直ぐ傍に在る。
(心地が良い)
かなめは心からそう思った。
「‥‥でも、このままで良い?」
少し申し訳なさそうに、それからはにかみながらかなめは訊ねる。
「ああ、構わない。 この方が、良いのなら。」
「うん、この方が良いよ。」
かなめはそういって、柔らかい笑顔を彼に向けた。
「‥‥俺も、この方が良い‥‥。」
続く