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若干の性的描写を含みます。苦手な方はご遠慮ください。

その朝予兆があった。夢を見た、いや或いは未来からの呼び声か。
それが何なのか記憶に残ってはいない、
ただ胸の奥に、風穴が空いた様な、恐ろしいまでの喪失感だけが居座っている。

かなめは滅入る気持ちを押しのけるように、ベッドからのそりと起き上がった

一二月一九日 一三時〇五
東京調布市

「はぁあーっと、どっこいしょ」
千鳥かなめはベッドに身を投げてなかなかわざとらしい溜息をついた。
艶のある黒髪がベッドの上に見事に広がっている。
「掃除もした、洗濯もした、ご飯の準備も終わった…あとなんだっけぇ…」
いかにも気だるいといった感じで
指を折りつつやるべき事をラインナップしてみたが、それ以上指は必要無かった。
行楽日和の土曜日、かなめは特にする事も無く、だらしなくベッドに倒れ足をバタつかせて遊んでいる。
暇で退屈で仕方ない、という自分を演じている。なるべく、何事もないように振る舞っているのだ。
「はぁ…」
半開きの眼で溜息をつくと、異様に大きな声に聞こえて我ながらビックリする。
部屋が広すぎるのだ。

明るい室内、穏やかな気候。
良い日だ。

それなのに、何に執心しようとも、心にぽっかりと穴が空いたような気持ちは埋まらない。
けれどじっとしていると、急速に時間が緩やかに感じ、それでいて静けさが不穏な予感を増長させた。
家族向けの3LDK、それがシン…と静まり返ると薄寒くさえある。
かなめはふいに寒気を覚えて小さく縮こまる。寒い…、いや違う、心細い。

香港の一件以来、退屈な土日は、恐怖だった。 たびたび不吉な感覚におそわれ、そして怯える。
学校が無い、必然的に皆が居ない、アイツも居ない。あのレイスは見ているかもしれないけど、それでも心細い。
いやもっと具体的に言えば『寂しい』、人恋しいのだ。生身の人間の温もりを求めているのだ、こういう時は。


こんな思いをするのは。初めてではない。

かなめは寝室の棚に目をやる。
小物や化粧道具と供に小さな写真立てが飾ってあった。
そこには小さなかなめと、彼女に似た女性が幸せそうに微笑んでいる。

―3年前のことだ。
あの日も、広すぎる部屋にかなめは一人置き去りになった。
部屋も心も、母の居た時間と空間の分だけポッカリと失われてしまった。
―お母さん。
愛した分、悲しみの想いが強くて、楽しかった事が良く思い出せない。
朝目を覚ましたらそこに母が居て、学校から帰っても家には暖かな明かりが灯り、母が待っていた。
覚えているのはそんな事。
だけど大好きだった、何でも無い、当たり前みたいな毎日。何時もそこにあると思っていた。
けれど失ってしまったら、あの日々は二度とは戻らなかった。

かなめはベッドに居たボン太くんをぎゅっと抱き締めた。
今朝の胸に残った感触はその時に良く似ていた気がして、また心細くなる。

「はぁ……」
暇というものはしばしば宜しくない。余計な事を考えてしまう。
この先もずっと、平穏が守られるなんてかなめにはもう思えなかった。
夢現に見なくたって、不穏な未来などもう容易に想像出来るのだ。
今のかなめの日常は、細い糸で繋がっているだけに過ぎない。気を抜いたら直ぐに壊れてしまう。

当たり前の日々がどんなに貴重か、痛いほど知っているのに。


かなめは気丈に歯を食いしばりかぶりを振って、気を紛らわすようにPHSをいじる。
こんな気持ち、誰にも話せない、でもとても一人では抱えられない。

今日、同じ事を何度繰り返したか解らないが、最後には必ずある部分で指を止めるのだ。
―サガラソースケ―
PHSの液晶にはそう表示されている。

「あいつ…」
かなめは未だ、休日の彼について、彼のプライベートについてまで把握していない。
というよりも、しようとしなかった。彼の事情を知れば知るほど、心が落ち着かなくなるのだ。
無事戻るのだろうか…と。 あの雨の日みたいに…。
「もう…懲り懲りだってのよ。…バカ。」
自分には、いざとなったら彼しかいない。そんな気がしていた。

世界で、自分が頼れるのは、肉親で無く、友達で無く。


妙に胸がしめつけられる思いがして、液晶のその名から目が離せなくなった。
―電話…さえすれば。
もしかしたら直ぐに駆けつけてくれるかもしれない。
『どうした?!』とか言って、血相変えて飛んで来てくれる。きっと。うん。
「………。」
想像してかなめはなんだか嬉しい様な心地がして、無性に彼に会いたいと思った。
意を決したように、その表示の番号をコールする。
コール音がなる、1回、2回……


「出ない、か。」
割とあっさり諦めがついた当たり、ハナから期待はしていなかった様だと気づく。
「そもそも、用も無くかけたら、迷惑だよね。 あいつ真剣に考えちゃうし。…ね。」

制服姿の「戦争ボケの宗介」は、随分近くに居る気がしている。
何時の間にか他愛ない会話もするようになり、どちらとなく相手を待って、一緒に下校する事が当たり前になった。
かなめが一人で居ても、実はすぐ傍でついて見ていた…という事もしばしばで。安心した。
けれど戦士としての彼は、彼が彼の世界に行ってしまっては、やはりまだ
「遠いな…」
学校と特別な用事でも無い限りは、存外他人行儀なのだ、あたしたちは。

窓から漏れる光が妙に眩しくて、かなめは手をかざすと洩れる光が虹色に見えた。
アレみたいだな、アレ。なんだっけ、なんとかドライバ。
なんだっけアイツの、そう。想いがカタチになるんだっただろうか…。
「―ソースケ……。」
心細い、会いたい。

……ピンポーン……

「わっ、何?!」
にわかに玄関から音がして、かなめはベットから文字通り飛び上がる。
あまりにタイミング良く鳴るものだから、それがインターホンのチャイムだと気づくのに時間がかかって、
モタモタしていると二度、三度、しつこくチャイムが鳴らされた。
「はいはい、うっせーわね、今あけるわよ…!!」
どーせ回覧か何かだろう、今度の町内会は少々偏屈で煩いからやんなっちゃう。
そんな事を思い、勢いに任せかなめは一気にドアを開け、目を見張はる。

「む……千鳥、居たのか」
そこには無愛想な少年が、先程心に浮かべた相良宗介が立っていた。
(え?何これ?―夢?)
先程までどこか遠いところに居ると思っていた、会えないと思っていた。
でも無性に会いたかった…、その彼が目の前に居る。
「千鳥……?」
ドアが開いて顔を合わせたまま、硬直しているかなめを訝って宗介が尋ねた。
やがて、はっとしてかなめがようやく口を開く。

「………うわ、ホントに出た。」
「何が出たのだ?」
「いや、こっちの話。ていうあんたこそ居たの?」
「居たぞ」
「どうしたの? 何か急ぎの用事?」
かなめがきょとんとしていると、宗介はどこかそわそわと目を泳がせた。
少し困ったような素振りを見せ、それから
「ああ、その…そう、散髪をしようと思ったのだが、中々上手くいかない。
また君の世話になろうと思うのだが?構わないだろうか?」
自分の前髪を摘まみながら言った。
言われて見ると、ボサボサの前髪が少々伸びた様な、気がしなくもないが。

「…そんなに伸びてない気がするけど、…まあ良いわよ?
 よっぽど気になるんでしょ? 真直ぐうちに来るなんて。」
突如現れた宗介は野戦服に身を包み背中には大きなバックパックを背負っていた。
どう考えても『仕事帰り』で、その上で直接かなめの家を尋ねたと見える。
「あ、ああ。 そんなところだ。」
「……?」

幾らなんでも帰って先ず散髪をしたいと思うのだろうか…?
それ以前に、いくら宗介でも、事前に一報くらい入れないのもおかしくないか…?
行動があまりに計画性を欠いていて、かなめは少々訝しげに思いつつ、まあいいか、と気軽に彼を家に上げた。
宗介の後ろをついて行くかなめの足取りは、軽い。
驚くより何よりも、かなめは彼の訪問が、嬉しかった。一縷の望みが繋がった様なそんな気分だった。

―なんか嘘みたいだけど。 ソースケが居る。 ソースケが。
久しぶりに見る制服以外の彼がなんだか新鮮で、初めて会ったような気分だった。
―やだ、なんでだろう、凄く、ドキドキする。
無意識のうちかなめは前を行く宗介の背中に羨望に似た視線を投げかけていた。
するとやがて、後頭部から背中にかけて少々汚れている事に気がついた。
「まーた、随分暴れてきたの?」
「?」
「それでソファーに座るのは勘弁してね、後ろ、ドロドロ。仕方ないなもう。」
少々呆れ声でかなめは言った、でもちっとも嫌そうではない。
「……む…すまん、迂闊だった。 そもそも散髪をして貰うのだから、風呂くらい入った方が良いな。
 やはり出直す事にする。」
「あ、ちょ、ちょっと待って!! いいよ、面倒だし、うちの使って?!」
「し、しかし…それは。」
「いいって。 上着は洗っとくから洗濯機に入れといて。 タオルはここ、石鹸とかテキトーに使っていいから。 じゃ。ごゆっくり!」
「待てちど…」
―バタン!!
そう言って押し込むように宗介を風呂に入れた。
強引に扉をしめたので、中で頭を打ったのか『痛い』と聞こえた。
「……。」
かなめはドアを背に暫く立ちつくしていた。
こう易々と男の人に風呂を貸すなんて、とんでもない事をしている自覚はありつつも、
なんだかこのまま彼に帰って欲しくなかった。
やがて、浴室から勢いよく水が出る音や、何か擦れるような音が聞こえて来る。
それが妙に生々しくて、かなめは恥ずかしくなって居間に避難して彼を待った。

「で、では宜しく頼む」
宗介は洗面所に用意された椅子にぎこち無く腰かけた。
「あ、うん。」
かなめは宗介の後ろに立ち、彼の堅い髪を櫛で梳かしていく。
あがり立てホヤホヤの宗介は、ホンワリと湯気が立っていて、当然自分と同じ石鹸の匂いがした。
その上かなめはTシャツの隙間の背中に玉の汗がついてるのを見てしまった。
「どうした?」
「……えっ?! あーごめんごめん」
スポーツの後の、男の子の爽やかな色気というか…
宗介にそう言った類のものを感じてしまい、かなめはドギマギ目を泳がせている。
その上、自分と同じ生活の匂いがまとわりついてるなんて、なんかこう、まるで家族みたいだ。

「き、昨日は、仕事だったの? 早かったねソースケ。びっくりしちゃった。
 あんたの事だからさ、今日も日本に居ないのかとも思ってたんだけど。あはは。」
気を紛らわすように、やたら明るくかなめが尋ねた。
「いや、確かにもう少しかかる筈だったのだが。なんとしてでも終わらせた。
 ……なかなか無茶な作戦だったのだがな。」
宗介は真直ぐ前を向いたまま応えた。
「なんとしてでも…て?」
「…む?」
「今日は何か、やりたい事とかあったの? 戦争以外にあんたの趣味って? …まさか散髪する為に空けてるわけじゃないでしょ?」

かなめの声が耳元で振動した、
息がかかって宗介が微動し、わずかに赤くなっている、かなめは気づいていないが。
「いや。今日は俺はその、何だ……」
「まいっか、あんたの事だからロクな事じゃないかもだけど。
 趣味を持つのは良い事よ。朴念仁が珍しい事もあるのねー」
妙に歯切れの悪い返答をする彼をほっておいてかなめはクスクス笑う。

「………まあ、そうかもしれんな。……君は今日はどうしていた?」
「…うっ、それは…」
突然宗介に聞き返され言葉に詰まる。かなめは今日…ごろごろしていた。
「何も無いか? ただ所在無くしていたのか? 友人は?会わないのか?」
どだい予定スカスカのかなめに、止めを刺すかの如く、やたらしつこく宗介が聞いてきた。

「…まあ、全部その通りなんだけど、返す言葉も無くてすいませんねって感じなんだけど。…あんたに言われるとメチャクチャ腹立つわー…。」
「そうか、それは良かった…」
その時宗介が深々と嘆息を漏らしたが、かなめから見える事は無かった。
「あんですって?!」
かなめは額に血管を浮き上がらせて口の端をひきつらせた、かと思うと、突然ションボリ項垂れたのが宗介の横目に見えた。
「だって……なんか皆忙しいみたいなのよねこの時期。」
「何故だ? クーデターでも起こるのか?この時期。」
宗介は至って真顔でのたまった。
「なわけないでしょうが?! ほらクリスマスとかの前だから。…なんつーの。 カップルはお忙しーわけですよ、イチャイチャと。」
「イチャイチャ?…がよく分からんが、君は忙しく無いのか?」
「うるっさい!しつこいってのよぶぅあーか!!」
「???」
宗介が小首を傾げて困った様な顔をしている。
かなめは今朝からの杞憂や、心細さが途端嘘みたく馬鹿馬鹿しく思えてきた。
何時の間にか強張っていた頬が緩み、気持ちが軽くなっている。
突然野戦服で現れたり失礼な事言ったり…。
彼の言動がどんなに滑稽でもそれが、寂しさすら、あたたかいもので埋めてくれる気がした。
孤独にそっと寄り添ってくれる様な、ほっこりした気持ち。
―悪くないな…こういうの。

「あの、ソースケ。 実はさ。 急にあんたが来てビックリしたんだけどさ。」
「なんだ」
「ソースケが来てくれて、よかったかも。」
「……な。」
「うん、ほんと。」
手を動かしながら、かなめがまた、語りかけた。

「…?」
「……広すぎるんだよねー」
「何が…だ…?」
先程からずっと鏡の中の宗介が不思議そうな顔をしている。
かなめは鏡ごしに彼を見ながら、続けた。

「この家ね。 お母さん居ないから…部屋余ってるし。…独りで住むには広すぎて。静かで。
 柄にも無いんだけど時々ちょっと心細いっていうか。参ったよあはは…。」
力無く笑うかなめを、宗介がじっと見守っている。
「だからだけど、どうしようもなく誰かに居てほしくなる時がある……
 ってソースケに分かる?」
部屋の隙間は、かなめの心の隙間だった。
相変わらずの宗介にほだされ、かなめはそれを素直に吐露した。
恭子にも、ハッキリ言った事は無いような『事情』だったのに。
宗介は天を仰いで眼を閉じている、どうやら真剣に考えてくれているようだ。それがかなめには嬉しかった。

「………ふむ。」
さらにまた逡巡し、言葉を選びながら続ける。
「つまり、君は俺がここに住んだ方が都合が良い、と言っているのか?」
「ふぇっ?!」
ガシャッ
かなめは素っ頓狂な声をあげ、ハサミを床に取り落とした。
「…ばっ、なんでそうなってんの? なななっなんであんたと、
 あんたみたいな戦争ボケと…あたあたあたしがっ?! あんたの頭はどうなってんのよ…バカ…!!」
「ちっ…違うのか? しかし俺が居る事が君にとって良い事で、一人は心地悪く、部屋が空いていると言った、となると、そのなんだ、それが君の要望では無いのか?」
宗介は早口で言い訳した後、滝の様な汗を流しつつ色々と考える素振りを見せた。
かと思うと、やがて真っ赤になってうなだれ「希望的観測はナントカカントカ」と呟いて舌打ちした。

「要望では……無いな。いや全く、早合点だすまん。
 生憎俺にはそういう風にしか聞こえなかったのだ。すまん。」
かなめは赤くなった頬を隠す為に、ハサミを拾うのにわざと手間取っている。
「ばか、ばか…」
―当たらずとも遠からず。
自分の発言を振り返れば確かにそう受け取れるではないか。
というよりも、そういう気持ちもどこかにあったのでは無いか…?
かなめがそんな事を考えていると、よほど焦っているのか宗介がまだ何か、ベラベラと喋っていた。

「良く考えれば解る事だ、俺を君の家に置くなど…、有得ない。………俺自身こらえられるかどうかも…約束できんしな。」
「…もうバカもうバカ…ん?最後なんか言った?」
「いやなんでもない幻聴だ」
宗介が白々しくうそぶいて、かなめが怪訝な顔を鏡越しに見せている。
が、それ以上追及されないらしい事にほっとして、宗介が口を開いた。

「それは誰でも良いのか?」
「え?」
宗介は一呼吸置いて、視線を鏡の中のかなめに戻してから言う。

「君は誰かに居てほしいと言うが、…例えば常盤…いや小野寺や風間でも構わないのか?」
「げっ…御免こうむるわね。」
「では…」
「……その。……それは。」
「それは…?」
鏡ごしでも彼の縋る様な眼は、かなめの心を容赦なくしめつける。
…何故だろう、今日は何時になくコイツが自分に向かってくる気がする…。
宗介の真剣な眼に根負けしたようにかなめが口を切った。

「とっ特別なのっ! ……そういうのは!」
「特別…なのか?」
「そうよ、悪い?!」
「いや、悪くない…特別か。」
どこか言葉を噛みしめる様に宗介は繰り返した。
「……うん?」
「『特別』ならいいのだ。」
かなめが鏡越しに伺うと、宗介が満足そうに小刻みに頷いていた。

「ところで千鳥、前の方を頼む」
「…はっ?!」
かなめは迂闊にもボーっとしていたところ突然話しかけられた。
「千鳥、何を驚いている?…いや、前髪が。
 梳かしてくれたのは良いのだが、実は先程から目に突き刺さって…。」
そう言った宗介の眼は充血している。
宗介の注文も無理ない、かなめは宗介の後頭部に必要以上にかかっていた。
直に向かい合うのが何だか無性に気恥かしくて往生際悪く時間稼ぎをしていたのだ。
切るところも無いのに、同じようなところを一ミリ二ミリいじって。

「…へーへー。注文が多いわねったく」
かなめがしぶしぶ宗介の前方に立つと、ふいに宗介から声をかけてきた。
やはり、今日はやたら彼は絡んでくる。

「千鳥その。明日も君は暇を持て余しているのか?」
「むかっ…うん。そうだけど…悪かったわね…。」
「そうなのか。…千鳥、出来れば休日も何か予定を入れろ、人と居た方が良い。」
「だーかーらー… あんたケンカ売ってんの? 分かってんのよ、んなこたあ。 でもこの時期皆忙しいの! あたしは暇だけどね!ふんっ!!」
そう言って『恋人にしたくない贈呈品イーター』のかなめがそっぽを向いた。
「何を怒っている?……ふむ、それならば俺が君と居よう。」
「はっ……?」

鏡越しでは無い、本物のかなめの瞳を宗介の真摯な眼差しがじっと見つめている。
何時の間にか、かなめの胸が早鐘を打っていた。止められなくて、かなめは動揺する。
「俺は明日も空けているのだが。 その…ごほん。君さえ良かったらどこか……、どこか行くか?」
はっとした。
宗介が何としてでも帰りたかった理由は…。
―もしや……
急速に気持ちが、嬉しい気持ちが泉の様に心の底から湧き出しているのが分かる。
―彼は―…。
「マジ……で?」
眼も見れない、素直に嬉しいと言えない、かなめは自分をもどかしく思う。
「俺は何時でも大真面目だ。何か問題があるのか?」
宗介が少し、へそを曲げた様な顔をしたので、かなめはますます慌ててしまう。
「だって。おか、おかしいよ…ソースケがそんな事言うなんて…。」
「おかしいか?」
「うん……。今日のあんたは最初から変よ。 何時も変だけど1000倍くらい変。」
「むぅ……なかなか酷いぞ千鳥。」
「だって…」
そう言って上目で恐る恐る宗介を見る。
おずおずと、宗介もどこか恐れる様にかなめを伺っている。
空気に互いの緊張が溶けている気がした。…ドキドキする。
やがてその張りつめた空気を宗介が破った。

「実は、聞いてほしいのだが。」
「…うん?」
かなめは無意識に何かを彼に期待して、胸が押しつぶされそうな心地がしていた。

「俺は今やパートタイマーだ、組織に属して命令に従う義務も無い。比較的時間は作れる。」
「そうなの?」
「そうなのだ。 それで、通常学校に通う分には、俺は君についていられる。
 だが、このような休日は、四六時中付いて回るわけにいかなかった、以前であれば。
 作戦のほか、定期的な報告義務や、ASのメンテナンス立ち会い等…優先しなければならない事があったのでな。」
(……?)
何時の間にか話が組織だの任務だのに流れていて、途中からあまり聞いていなかった。
自分の分からない世界だ、かなめは何となく疎外感を覚える。

「……ソースケ、仕事の話ならあたし良く分かん…」
「しかし情報部の人間はやはりアテにならん、だからその、休日だろうが警戒を解くべきでは無いと俺は判断した。」
「……」
だから、明日…。そうかそういうことか。
彼のさっきの言動は義務感からだったのだ…。
かなめはそれに気づいて、先程の高揚が一気に落胆へと変わるのが分かった。
と、同時に急に彼がどこか冷たく、遠く思えた。

「念の為、大佐殿の許可も得た。…それで」

(大佐殿?)

『あの子』の…あの子の指示なの?

あの子に何の罪もない事は分かっていた。子供じみているとも思う。
けれどあの少女の面影がチラついた途端、かなめはある種の感情を抑える事が出来なくなった。

「……ふーん、それは仕事熱心な事で。相良軍曹殿。」
かなめは無表情に、突き放すように言った。
彼女の急激な変化に、宗介も流石に気づいたようで、彼の表情が途端強張る。
「いや……そうなのだが、そうではない、その」
何かを弁解しようとしている。
何を弁解する事があるのだろう?かなめは冷ややかにそう思った。

―あたしの知らないとこで、あの子の言いなりになって「はい分かりましたサー」とか言ってんだわどうせ。
さっきのだって、あの子の入れ知恵かもしれない。

「あーめんどくせーわね、つまり何? 監視モニターでも増やす? 風呂とかトイレにも付ける?」
勝手に語気が強まる、でも止められない。
「違う!!」
「だからどー違うっての? ハッキリ言いなさいよ、あんたは何時も何時も!!」
「心配だ、俺は君の傍に居たい。」
「…は…?」
「ハッキリ言った。」
宗介は、迷いの無い澄んだ眼でかなめを見据えていた。
「あの」
「…俺で無くても良いかもしれない、誰かが傍に居た方が安全なのだ。
 だが、なるべくなら俺自身がそうしたい。」
「他人を…巻き込むなって?」
「それもある、だが違う…俺の為だ。 君を一人にして置くのは耐えられない。
 しかし俺意外の誰かの手に委ねる事もしたくない。 誰かで無く…君には俺を頼って欲しい。
 それで……俺はただ君に傍に居てほしいのだ。 でなければ心配だ。」
そう言って宗介はしかられた子供の様な表情でうつむいた。

「驚いた。」
かなめは驚いていた。
宗介がこんな風に、自己中心的な事を言った事に、である。

「それって…つまりあんたの我儘じゃない」
俺に頼れと、傍に居ろと…、宗介はただ我儘を言っているに過ぎない。
そこには戦略も、義務も命令も無く、あるのはただ、彼の感情のみで。
「…すまん、そうなるな。…すまん。」
ますますうなだれる宗介の顔を両手でつかみ、かなめはグイと持ち上げる。
「こら、髪、切れないでしょーが!」
それから、満面の笑みをかなめは浮かべた。
「千鳥? …怒ってないのか?」
彼女の表情の変化についていけず、宗介は混乱しているようだ。
「なんの事?」
「いやその…」
「心配…してくれたんでしょ?」
「何時も心配だ…。」
言って、宗介がまたうなだれるので、かなめは顔を持ち上げて言う。
「じゃあ、なるべく今度から来る時は電話してね。
 あのね、突然女の子の家にあがるなんてのは、すっげー失礼なのよ?」
「…すまん、今日は…実はその。散髪の用事では無く、ただ君の様子が気になって…」
「うん、知ってる。」
宗介は気まずそうに呟いたが、かなめはニッコリ笑って言った。

「あたしもその、ちゃんとソースケに頼るから。 困ったら、呼ぶから。」
「ああ、その方が助かる」
「そう、なんだよね。ごめんね、あたし苦手でさー、こういうの。へへへ。」
頬をぽりぽり掻きながら言って、かなめは甘え下手の自分を恨んでいた。
自分と彼の距離を遠ざけていたのは、他でもない自分だったのかもしれない。
宗介はそれを分かってたのだろうかと、かなめは確信めいた気持ちになる。

「あのさ。ソースケ。」
散髪を再開して、かなめは言う。
「なんだ」
「あたしにはソースケしか居ないのよ。」
「いや、そんな事は。君には沢山」
「本当なの」
伏し目がちにかなめが呟く、長い睫毛が影になっている。
「そうか、なら遠慮するな何時でも駆けつける。」
「ありがと。」
「俺は、君を護る。必ず。約束する。」
「ありがと…。…嬉しいよ。」
力強かった、あたたかかった。涙がこぼれそうになってやっとの事で止めた。
嬉しいと言ったら。
終始苦い顔だった宗介が、一転して信じられないほど晴れやかな顔をしたから。
それがあまりに滑稽で、愛おしくて、心がまた、温かなもので満たされていく。
当然の事のように居てくれる、何時も見守ってくれる。
宗介からかなめに向けられていたのは、とてもあたたかでかけがえのない気持ちだった。
それでいてそれはどこか、かなめには懐かしく感じられて、それから思い出した。

柔らかな、温かい手が、今より少し幼いかなめの髪をなでている。
母親の悲しみを目の当たりにして素直に甘えられなかった、
気を遣っていた、母が病気になってからはもっとそうだった。
ある日突然母親が言った。
退院したら、海に行こう、山に行こう、動物園に行こう。
自分を困らせた。そんな事言うなんておかしいと、笑った。
雨だったら一緒に本を読もう。
約束した。
晴れでも雨でも。春も夏も秋も、寒い冬も。ずっと傍に居ると。
それから、もっと甘えて良いと、もっと頼って良いと、抱きしめてくれた。

傍に居る。
『約束』は未来を織りなしてくれるから、続いていくのだ。
ずっと一緒に居れる、約束があるから大丈夫。
そう思っていた。


「千鳥……」
「……はっ」
「どうした? 何か問題でも…。」
宗介は、ひどく心配そうな顔をしていた。
「え?そお? やだなー何でも無いよ! ホント! う、うはははは……」
「………」

それきりその話は終わった。
かなめが黙ると、穏やかな沈黙が訪れ、ハサミの擦れる音だけが響いていた。
その音に聞き入りながら、宗介がぼんやりと鏡越しのかなめを見ている。
焦点はややかなめから外しており、控えめにかなめの様子を伺っているようだった。
かなめは丹念に宗介の堅い毛をとかしては、少しずつ少しずつ切りそろえる。
口ぶりや素振りとは裏腹、その手つきは丁寧で、優しい。
「ソースケそろそろ終わるからちゃんと前向いてよねー…ん? ソースケ?」
それは、以前彼の髪を切ってあげた時と全く同じ状況であった。
「あぁ~、また……。」
かなめが宗介を覗き込むと、すでに彼は安らかな寝息を立てて眠りに落ちていた。
あの時と変わらずに、可愛い寝顔で。
「……」
気持ちが数ヶ月前に戻る、かなめの気持ちもあの時のまま、いやもっと、苦しい。
胸がきゅっとしめつけられる。

あの時、キス、すれば良かったのかもしれない。
かなめは何時か激しく悔んだ事を思い出す。
キスしたら、ちゃんと伝えていたら、宗介は居なくならなかったのかもしれない。

ずっと傍に居る保障なんて、無いのだ。絆なんて脆いのだ。
彼がどんなに頑張ってくれたって、自分から大事にしないと、求めないと、簡単に壊れてしまう。
もっとこうしとけば良かった、ああしとけば良かったなんて、後で悔やんでも遅い。

置いていかないで、一人にしないで。傍に居て。
あの時伝えられなかった言葉が今、洪水の様に溢れだしてくる。
今度こそ。失いたくない。

かなめは、引き寄せられるように近づいていく。
自分の唇に暖かい彼の息がかかって、そして……


―駄目


その時、頭の中で何かが警鐘を鳴らした気がした。
「……!!」
次の瞬間洗面台に腰を強く打って、はっと我に返る。
すんでのところで怖じ気づいて身を引いてしまったのか?
いや、違う、自分の頭の中で何かが引っかかっている…何かが。

(どうして?どうして逃げるの?…何? 頭がグチャグチャする。)
様々な感情がない交ぜになって、かなめは混乱した。
何かが酷く怖いのだ、今朝起きた時の、おぞましい喪失感が蘇るかのような…。

3年前 雨の日 未来 
繰り返している。その全てに共通して存在する、喪失が。

 

「しないのか?」

 

その時ふいに声がした。宗介の声が。
―起きて…た?
…驚きよりも、何よりも、時間が止まったかに思えて、言葉が出なかった。
金縛りにあったかのようにかなめは大きな瞳だけを宗介に釘付けにしていた。

「な、何をよ…?」
返事が無い代わりに宗介がじっとこちらを見つめた、
どことなく不機嫌なニュアンスをを漂わせ、鋭い眼でかなめを見据えている。
自分の心の内を全て見透かしているような気がして、思わず目を逸らした。
「しねーわよ!…そっ…その、やだなーもう冗談よ、からかっただけ、本気にしないでよね」
うははと誤魔化そうとした、しかしその言葉が彼の中の引き金を引いてしまった。
彼には珍しくムキになって、しかし至って低い声で言った。
「…何故君は、その様に俺から逃げる?」
「え?」
次の瞬間、
ぐいと腕を引かれたかと思うと、宗介と自分の唇が軽く触れ合った。
「ちょっ」
「悪いが俺は冗談は通じん」
驚いて反射的に後ずさると、離れた唇を追いかけるように宗介が、今度は深くかなめに唇を落とした。
「ふっ…」
荒々しい追随とは裏腹に、優しい温度が唇を包み、彼の舌が丁寧に歯列を、頬の裏側を舐めていく。
薄眼を開け良く見ると、彼の瞼が小刻みに震えていて、
乱暴に抱き寄せたかに思えた彼の腕は不器用にかなめの背をさすり、また強く抱きしめた。
あたたかく、優しく、それでいて激しかった。
「…っ……俺が、恐いのか?」
「……ちがっ…んん。」
あの雨の日、奪われた時とは、違う。全く違う。
唇の柔らかさも、口内を滑る舌も、彼の熱い息も、溢れる唾液すら、何もかもが
愛おしくて、心が震え、目眩がするほどの快感を覚えた。
こうなれば良いと望んでいたのかもしれない、まるで自然な事のように彼を受け入れている。
体の内から溶けてしまいそうだった、ずっとこうして絡み合って居たいと眼を閉じると、
かなめは目の前が真っ白に晴れていくのを感じて、突然膝を支える力が失われた。

「千鳥……」
「あ…や…」
抱きかかえる宗介の腕の中でかなめは正気に帰った、けれど目が合って、強く惹かれて、また捕らわれる。
それは彼も同じようで、どこか夢をみるような、熱い眼でかなめを見つめている。
何時の間にか、日が傾いていた。
どうでもいい事だと思いながらも冬の夕暮れの早さに驚く。
夕日がかなめを照らし、怖いくらいにキレイだと、宗介は見惚れる。

「君は、一体何を怯えている?」
「……それは…んっ…」
発しかけた言葉は再び彼によって、塞がれる。
「…や…またっ、ソースケ何すんのよぉ…」
「……こうでもしなければ君は、泣いてしまいそうだ。」
「え…。」
「今日会ったときからずっとそうだ。」
そのまま宗介がかなめを強く抱きしめた。

「言えないなら良い…。ただ、もっと君から頼って欲しい。……でないと護れない。」
宗介がかなめの耳元で悔しげに唸る様に、低く漏らした。
途端にかなめの感情が、関を切った様に溢れだす。
涙が、止まらない。

彼を信頼してないわけではない、そんなはず無い、でも恐いのだ、恐い。
これ以上近づいて、愛して
失うのが酷く恐い。 日常、友達、……そして彼を。

かなめは宗介にしがみついて尚、嗚咽をこらえて泣いている。
その姿が痛ましくても、己が不甲斐なくても、宗介はただ抱きしめる事しか出来なかった。


「……ごめんもう大丈夫…。今日は…帰って。」
宗介の胸元を両手で支え、かなめは出来る限りやんわりと、彼を拒んだ。
宗介の顔に傷ついた様な色が浮かび、かなめの胸がズキンと痛む。
永遠の様な沈黙が続き、やっとの事で宗介が口を開く。
「……ああ、その。……すまなかった千鳥俺は」
「別に、謝ることは無いんじゃない? ていうかあんたね、他に言う事あるんじゃないの?」
かなめは努めて明るく、そう出来るだけ普段のノリで彼に接した。
宗介はにわかにほっとした様な表情をしていたので、かなめもつられて胸をなでおろす。
それから彼は逡巡して、言葉を探す努力を見せたくせに。
「……今日は。髪。 感謝す、いや………有難う。」
なんとも無骨な礼をした。
「うん」
かなめはおかしそうに笑った。

「その多分、もう少し時間がかかるから…。ごめん。」
玄関先まで来て、かなめがふいに呟いた。
宗介はただ小刻みに首をふって、何も言わない。
けれど彼の眼が酷く不安気で『心配だ』と訴えていたので、かなめもそれ以上何も言わなかった。
それから暇を告げ、煮え切らない気持ちで宗介が振り返ろうとしたその時。
「宗介、また明日。」
かなめが扉の隙間から顔だけ覗かせて、恥ずかしそうに笑いかけた。
その仕草に、ますます別れ難い気持ちを覚えながらも、宗介は言葉を返す。
「また明日……。 うむ。電話する。」
言い残した彼の約束がこそばゆくて嬉しくて、また愛おしさがこみ上げる。
けれども、束の間の別れが迫っている事に、かなめの胸は苦しくなった。
また、寂しくなる。

失ってもまた見つけられるだろうか。 胸の風穴は、埋まるだろうか。
これからも彼と一緒に…――
ずっとこんな日が続いたならと、かなめは遠ざかる彼の背中に祈った。

 


 

千鳥さんはギリギリまで頑張って本当にまずい!というところまで泣いたり、助けを求めたり出来なさそうだなと思います。
そこらへんに宗介は結構早い段階から気づいてヤキモキしてたよーな?気がします。
あとあの状況で一人で3LDKというのは心細そう過ぎるので、空いてる部屋は遠慮なく使っちゃえば良いのにとか。
後々そういうネタをやりたい為、布石エピソード的な話でした。という事で続きが書ければなあ…と。

しかし長い、すいません!

タイトルは真っ当に訳すると拾得物預り所になってしまいます。…あんまし意味はありません。

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